山田方谷の門人とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 山田方谷の門人の意味・解説 

山田方谷の門人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 04:37 UTC 版)

川田甕江」の記事における「山田方谷の門人」の解説

備中国浅口郡玉島(現・倉敷市玉島中央町)の回船問屋大国屋」に生まれる。幼いうちに両親先立たれ没落し辛い少年時代を過ごす。玉島儒学者鎌田玄渓に学んだが、玄渓は甕江の才能気付いて自ら「師に足らず」と述べて江戸へ遊学勧めた江戸で佐藤一斎らの下で学びながら、学資のために蔵書売り家庭教師をするなどの苦学の末、近江大溝藩藩儒として100石が与えられることとなったその時備中松山藩執政であった陽明学者山田方谷藩儒として50石で召したいという希望を甕江に伝えてきたのである。甕江は備中松山故郷に近いことに加えて、わずか数年松山藩財政再建実現させた山田方谷学識手腕をこの目で確かめられる好機であると考えて大溝藩半分備中松山藩への仕官決めたのである安政4年1857年28歳出来事であったちなみに甕江の仕官前に彼の評判聞いた方谷自分力量認めて弟子江戸送り出した鎌田玄渓もまた優れた人物であると高く評価して同じく藩の儒臣に招いていた)。 方谷学問学んだ甕江は、すぐに頭角著して門人としては新参ながら江戸藩邸教授任され三島中洲とともに方谷門人筆頭として扱われるようになった。だが、戊辰戦争では藩主板倉勝静老中首座として幕府軍参加したために備中松山藩は「朝敵」とされてしまう。甕江は藩兵を密かに備中引き揚げさせる工作行っていたが、岡山藩による備中松山占領の方が早く岡山藩要求によって藩兵の隊長であった重臣熊田恰が責任取って切腹する代わりに他の藩士の罪を免除させるということになり、甕江が切腹目付役務めることになったその後方谷の命に従って江戸で出家させる予定であった板倉勝弼藩主擁立蝦夷地まで逃れた勝静の捜索などを行ない高齢方谷に代わって三島中洲とともに藩の存続尽力した

※この「山田方谷の門人」の解説は、「川田甕江」の解説の一部です。
「山田方谷の門人」を含む「川田甕江」の記事については、「川田甕江」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「山田方谷の門人」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


このページでは「ウィキペディア小見出し辞書」から山田方谷の門人を検索した結果を表示しています。
Weblioに収録されているすべての辞書から山田方谷の門人を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
 全ての辞書から山田方谷の門人を検索

英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「山田方谷の門人」の関連用語

山田方谷の門人のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



山田方谷の門人のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの川田甕江 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS