山城の構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/20 03:42 UTC 版)
近年、発掘調査や整備が進み、曲輪、石垣、土塁、堀切といった山城の構造物を見ることができる。また麓には、居館とみられる石垣も認められており、平時は居館で生活し、戦争時には山城に籠もるという、戦国時代の典型的な形態となっている。居館と山城の両方の遺構が現在でも残っている点は、全国的に見ても珍しい。 居館部城山の南西麓付近の谷筋に開削された段状の平地があり、古くから城主と家臣の屋敷跡ではないかと言われていた。2001年と2002年の発掘調査により、土塁や石垣、石組みの溝、建物の礎石が検出されている。2004年には、居館跡の正面に大規模な石垣が発見された、これは16世紀末から17世紀初めに築かれたとみられており、江戸時代に入ってからも、しばらくは城としての機能をもっていたと考えられている。 山城部居館跡から九十九折りの山道が付けられており、中腹に二の丸跡と伝えられる出丸がある。この出丸は食い違いの虎口を持ち、周囲を高さ2メートル以上の高土塁で囲った堅固な構造となっている。なお、現状の山道は出丸を通らないルートとなっているが、もとの登城道は出丸のある尾根筋に付けられていたと考えられている。 城山の山頂部は平たく開削された本丸跡である。本丸は東と北西の2箇所に平虎口を設け、周囲の斜面に部分的に石垣が残存している。大正期に設置された国吉城碑があり、四等三角点(基準点名:徳賞寺)が設置されている。また、周囲で見つかった石仏、仏頭、五輪塔が何箇所かに集められているが、これは籠城戦の際に防御に使用した投石という。本丸跡からは東西を走る街道の見通しが非常に良く、敵の動きをつかむに絶好の位置にあり、同所に城を築いた意味がよく分かる。 本丸の北西虎口は、北西の尾根に連結し、5つの曲輪が階段状に連なる連郭式構造となっている。この構造は若狭の山城の特徴であり、おおい町の石山城、小浜市の後瀬山城にもみられる。各曲輪の斜面は急勾配で、かつ高低差も大きく、容易に登ることができないことが体感できる。なお、曲輪を通過し、そのまま尾根を下りきると、妙見堂を経由し、椿峠近くの旧丹後街道に出ることができるようになっている。 本丸の東虎口は、尾根伝いに腰越坂(こしごえさか)を経由し、国吉城の砦である岩出山砦(いわでやまとりで)跡につながっている。 本丸跡の石碑。 古い板碑。投石用とみられる。 居館の石垣。2004年の発掘調査時の写真。 北西尾根から見た椿峠付近と坂尻集落。
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