尾嶋家の人々とその関係者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/10 07:00 UTC 版)
咲也(さくや) 宣則(すなわち正念)の生母。つましい御家人の娘だったが、15歳で下総富澤藩の藩主に見初められ、側室お咲の方となって、江戸藩邸で8男宣則を産んだ。宣則が国元で養育されるために国元に送られた後、眼病を患ってほとんど視力を失ってしまったために、藩主に疎まれ、定府の家臣である尾嶋多聞に下賜された。 宣則がお控えさまとして江戸藩邸に呼び戻された当初は、宣則とも頻繁に交流があったが、ある日を境に、突然宣則から冷淡な扱いを受けるようになる。その後一度も再会することがなく、贈り物でさえも拒否された。心臓を病んで危篤となった後も、正念(宣則)の訪問はなく、正念が尾嶋邸を訪れたのは、咲也が息を引き取り、湯灌を行なったときであった。享年50歳。 しかし、生前の咲也は、宣則が自分に冷たくし、会おうとしない理由が、自分の今の暮らしを守るためだと正しく理解しており、宣則が出家して寂しくないかと案じた多聞に、「遠くにいらっしゃればいらっしゃるほど、守られる幸せを感じます」と答えたという。 尾嶋 多聞(おじま たもん) 納戸役として立てた些細な手柄を理由に、藩主の寵愛を失った咲也を下賜され、妻として迎え入れた。しかし、二人は深く愛し合ったと娘のあや女は語った。 亡くなった咲也の納棺の際、正念に母子草を棺に入れるよう願った。咲也の息子である宣則にではなく、僧侶としての正念に願う形式を取ったことで、正念はその願いを引き受けざるを得なかった。 湯灌と納棺の後、正縁とあや女に、宣則は咲也を疎ましく思ったことは一度もなかったことと、宣則があえて冷たい態度を取り、母を遠ざけようとし、さらには墓寺に出家までした理由を教えた。 4年後、青泉寺を訪問し、現藩主が重病となり、跡継ぎもいないため、このままでは藩が取り潰されてしまうことを告げ、改めて正念の還俗を願った。 あや女 多聞と咲也との間に生まれた娘で、宣則の異母妹。21、2歳。水澤が訪問した次の日に青泉寺を訪れ、正念(宣則)に母を見舞うよう願った。しかし、頑として母を見舞おうとしない宣則について、自分が国元で暮らしている間に、再婚して娘までもうけたことを恨み、未だに赦せないのだと解釈した。そして、そんな兄を冷たい人だと思い、怒りを覚えて責めもしたが、湯灌のときの表情や棺に母子草を入れる態度から、兄の母に対する愛情の深さを悟った。また、重之進や父の言葉によって、若い頃の兄が母に冷たくした理由や、出家した理由も知ることとなる。 その後、婿を迎え、尾嶋家の跡継ぎ、咲太郎(さくたろう)を出産した。父が正念に還俗を願いに来た後、咲太郎を連れて正念に会いに来た。そして、彼が還俗すれば正縁と夫婦になることもできると語った。また、正縁にも、仏の教えを信じ、心を向けて生きることは、僧籍の有無にかかわりないのではないかと語った。 水澤 重之進(みずさわ じゅうのしん) 70歳を越えていると思われる武家の隠居。藩主の子である宣則を国元で養育した。咲也の危篤を受け、正念に見舞ってくれるよう願ったが拒否された。 宣則が出家した際は、当藩の大事な若君を屍洗いにするとは何事かと、正真を罵倒した。よりにもよって墓寺を選んで出家した宣則と、それを受け入れた正真に対して、長らく失望と恨みにも似た感情を抱いていたが、正念の湯灌を見て、正念が出家先に青泉寺に選び、師匠を正真に選んだことは正しかったのだと悟った。 後に、正真と正念が寺社奉行所に捕縛された際は、釈放のために尽力した。
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