小型駆逐艦としての水雷艇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 03:03 UTC 版)
上記のように、フランス海軍は早くから水雷艇に着目してきたが、その分だけ駆逐艦への移行が遅れ、第一次世界大戦時にも水雷艇が依然として多く残っていた。その後、大戦後の水雷戦力の再構築にあたっては、他国の駆逐艦に相当する艦隊水雷艇(Torpilleur d'escadre)と、これよりも一回り大きく軽巡洋艦に近い運用を想定した水雷艇駆逐艦(Contre-torpilleur)とが並行して整備されていくことになり、1922年度計画で、それぞれブーラスク級およびシャカル級として建造を開始した。 一方、ヴァイマル共和政下のドイツでは、メーヴェ級(1923型)を端緒として駆逐艦の整備を再開したが、ヴェルサイユ条約による軍備制限のために小型で余裕がない艦しか保有することができず、部内分類としては水雷艇(Torpedoboot)と称されていた。その後、軍備制限の破棄を前提に、上記のフランス海軍の大型駆逐艦(水雷艇駆逐艦)に対抗できる有力艦として建造されたZ1型駆逐艦が1937年に就役すると、これらの小型駆逐艦は正式に水雷艇に類別変更された。ただしこのように大型の駆逐艦(Zerstörer)が建造されるようになったあとでも、これらを補完する沿岸用駆逐艦としての水雷艇の建造も継続されており、T22型水雷艇では基準排水量1,297トンまで大型化した。 大日本帝国海軍では、1930年のロンドン海軍条約によって駆逐艦の保有制限を受けたことから、条約制限外の小型艦によって駆逐艦の任務を代替させることを構想し、上記のように大正時代に廃止していた「水雷艇」の類別を復活させて、千鳥型を端緒として建造を開始した。これは600トン未満の排水量で1,000トン型駆逐艦に準ずる性能を実現しようとした野心的な設計であったが、いずれも極端なトップヘビーに陥って友鶴事件に代表される転覆事故などを起こしており、同軍縮条約から脱退して無条約時代に入ると、昭和9年度計画で建造された鴻型を掉尾として、水雷艇は建造されなくなった。 大陸ヨーロッパでも、日本と同じように制限外艦艇としての水雷艇に着目した国があり、フランス海軍はラ・メルポメーヌ級、イタリア王立海軍はスピカ級を建造した。またスピカ級のうち第二次世界大戦を生き延びた艦は、イタリア共和国憲法体制下のイタリア海軍でも再就役して、1950年から1952年にかけて高速コルベットとして改修されており、北大西洋条約機構のペナント・ナンバーとしてはフリゲートとして扱われた。 ドイツ海軍「ヤグアル」 大日本帝国海軍「千鳥」
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