富山不二越工場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 04:19 UTC 版)
富山県の不二越工場には1943年に仁川の報国隊が派遣され、1944年5月には慶尚北道隊70〜100人の半島女子挺身隊が到着した。6月8日には慶尚南道隊100人が到着した。1944年6月頃からは概数1090人(そのうち約420人は1945年7月に朝鮮の沙里工場へ移動)し、終戦直後に帰国している。 京城府での応募は毎日新報を通じて募集され、応募資格は国民学校の卒業生で年齢17〜20歳、契約は2年で、「これは決して徴用ではなく、国を愛する真心からすすんで志願」することが望むと紙面で書かれた。また、京城府の女子中学校や国民学校の校長が集められ、挺身隊への希望者を募った。例えば徳寿国民学校高等科2年生では、クラスごとに6〜15人が選抜された。芳山国民学校教師の証言によれば、生徒たちは全員が「いく、いく」と手を挙げるが、帰宅すると親に反対されたため、選抜されたのは5人にとどまったという。募集は教会でも行われ、東大門の監理教会から17歳の貧しい農家の女子が2人派遣された。6月27日の京城府選考会では150人が選出された。仁川では50人が選出された。 1944年7月2日、京城隊・仁川隊壮行会が行われ、終了後、隊員たちは朝鮮神宮に参拝した。7月6日には京畿道隊、仁川隊が富山に到着した。 1945年1月24日毎日新報の広告では「来れ、職場は女性を呼ぶ 女子挺身隊を募る」とあり、13歳以上21歳までの女性が募集された。3月2日には全羅北道隊100人、そのなかには全州相生国民学校5-6年生10人など含まれ、さらに開城以南の650人が不二越へ到着した。 1945年2月24日には、京城府、仁川府、開城府からなる京畿道中隊150人が出動した。 第一陣から第四陣までの動員数は「不二越五十年史」では1090人とある。また「富山県警察氏」下巻には県内の朝鮮女性は2800人と記載されている。 1945年7月の富山空襲で朝鮮人挺身隊からも被害者が出た。8月以降、隊員は分散して帰国したが、全羅北道隊の一員の証言では8ヶ月分の賃金として170円が支払われたという。
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