富士重工業での経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 13:35 UTC 版)
1954年に自動車生産進出のための第1号試作車、すばる1500(コードネームP-1)を開発。当時としては画期的なモノコックボディ・前輪独立サスペンションを採用したが、メインバンクの日本興業銀行が同業他社(日産自動車)の大株主であった為、設備投資への同意が得られず試作のみに終わった。試作された数台は、富士重工業の社用車や地元のタクシーとして使われた。 1955年からは、スバル・360の開発を主導した。1958年に発売された同車は、軽量な車体による当時としては画期的な動力性能・独自のサスペンションによるソフトな乗り心地・極限まで煮詰められたスペースユーティリティによる良好な居住性など時代を先取りした人間優先の設計思想により、軽自動車の設計に新しい可能性を切り開き、1970年まで継続生産された。 1961年には、キャブオーバー軽商用車スバル・サンバーを開発。 その後、百瀬の理想であった前輪駆動車(FWD)の開発に取り組み、「等速ジョイント」の完成形の一つと言えるダブル・オフセット・ジョイント(D.O.J)を世界で初めて実用化することで、FWDの欠点を克服したスバル・1000を完成させた。1966年に発売された同車は、水平対向4気筒エンジン・電動式冷却ファン・インボードブレーキなどの当時では画期的な新技術を満載しており、その根本的な設計思想は今日のインプレッサ・レガシィ・フォレスターなどに受け継がれている。
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