実業へ政商として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/14 15:07 UTC 版)
木戸に期待され、出世コースに入った吉富であるが、すぐに官職を辞して山口に帰る。明治4年7月に廃藩置県が行われるが、この際に諸藩の債務の多くが切り捨てられた。吉富家は長州藩に5000石余りを貸し付け、その利子だけでも年に100石を超えていたが、この貸し付けが無くなってしまったのである。実家の経済的危機にあたって吉富は辞職し、山口に帰って家計の再建に取り組み、木戸に薦められた岩倉使節団への参加も断っている。井上らは吉富に中央へ戻るように呼びかけるが、吉富は官吏として名誉を求める気は全く無くしている。 明治6年(1873年)、井上は政府を辞め親しい商人岡田平蔵と岡田組を創設し、岡田の急死後には先収会社を設立して実業界に入る。この時吉富は先収会社大阪支店頭取(支店長)を任される。政府を辞したとはいえ長州閥のコネクションを持つ井上は親しい中野梧一を山口県の権令(県知事)にあてるが、中野・吉富らで山口県の農民からの収奪を図る。 山口県と吉富の交渉で先収会社への山口県産米の払い下げが決まり、明治6年度の山口県の地租改正では農民は現金ではなく現米で税の納入という事になったが(地租引当米制度)、この際1石あたり3円という米価が農民に押し付けられた。これは相場の半値程度であり、農民は甚だしく不当な安値で作った米を売らされたのである。山口県は農民から不当に安く納入させた地租米を、相場よりもはるかに安い値段で士族禄米として旧武士階級へ支給し、残りの米を地元と大阪で売ったが、大阪で売った分は先収会社が独占して取り扱った。岡田組から先収会社へ引継ぎが行われている明治7年(1874年)初頭では、米の相場は1石あたり6円程度の所、先収会社には山口県から1石あたり4円20銭で5万石の米が払い下げられた。同じように明治7年産米も翌明治8年(1875年)産米も相場よりも安い価格で山口県(実際は県が設立した防長共同会社)の県外売却分は先収会社に独占的に扱わせた。 この時、山口県から直接先収会社に安価で米を払い下げては汚職の汚名を着せられる可能性があるので、建前上は農民の手で設立された形の防長共同会社が米を集めて地租の一括納入と米の販売する形にした。防長共同会社があげた利益は農民に還元する建前だったが、実際には利益は戸長(地主)が収奪し、井上や中野、吉富と士族、地主階級で山口の農民たちが作った米を不当に安く買い叩き巨額の利益を得たわけである。吉富も先収会社社員として月給250円という巨額の報酬を得ている(当時、最下級の職工は月給5-6円の時代である)。 当然、米を不当に安く買いたたかれた農民たちは反発し反対闘争を繰り広げ、山口県政は動揺する。折しも江華島事件勃発を機に井上の政界復帰が決まり、明治9年(1876年)6月に先収会社は解散し、同年8月に地租引当米制度は廃止される。しかし、農民たちは搾取された分の返還を求め、責任を追及し続ける。地租引当米制度への農民たちの闘争は大津郡の町野周吉らを中心に繰り広げられていく。
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