定期旅客運航開始
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1951年10月25日には、戦後初の国内民間航空定期便としてアメリカのノースウエスト航空から乗員とともにリースしたマーチン2-0-2型機「もく星号」で羽田空港-伊丹空港-板付空港間の定期旅客運航を開始した。その後1951年11月1日より正規ダイヤの運航に移り、羽田空港-千歳空港間の運航も開始するとともに、より大型のダグラス DC-4B型機もノースウエスト航空からリースした。 当初は国内線の運航のみで、しかも当時日本に乗り入れていた旧連合国陣営の外国航空会社5社による共同設立会社であるJDAC (Japan Domestic Airline Company)との運航委託を条件とした営業免許だったこともあり、JDACの1社であるノースウエスト航空の機材と運航乗務員による委託運航という体制だった。しかし翌1952年4月に、ノースウエスト航空の乗務員が運航していた「もく星号」が伊豆大島で墜落事故を起こしたこともあり、1952年10月にノースウエスト航空との運航委託契約が切れるのを待って、新たに購入したダグラスDC-4B型機「高千穂号」によって自主運航を開始した。 また、これに先立つ1952年6月には、国内ローカル線用にイギリス製の近距離向けプロペラ機のデ・ハビランド製DH.114 ヘロン型機を発注した他、1952年7月には、本格的な国際線運航に向けて、イギリス製の最新鋭ジェット旅客機であるDH.106 コメット型機の最新型であるコメットIIを2機発注した。さらに1952年9月にはダグラスDC-4B型機に代わる国際線主力機として、DC-4Bを大型化しエンジンも改良、更に客室を与圧化し快適性を増したダグラスDC-6B型機も相次いで発注した。 しかしDH.114 ヘロンは翌1953年8月に公布、施行された日本航空株式会社法(昭和28年法律第154号)の規定により、日本航空の運航路線が国際線および国内の幹線のみに限定されることとなったため、自社で運航乗務員の訓練用に使用した後、1954年2月から8月にかけて日本ヘリコプター(現在の全日空)に賃貸し、その後同社に売却することになった。また、先に発注したコメットIIも、その後設計ミスにより空中分解する連続事故を起こし運航が停止となったため、その後多くの航空会社と同様に発注をキャンセルした。 なお、「日本航空株式会社法」の公布に基づき、1953年10月1日には特殊会社である新しい「日本航空株式会社」が誕生し、それまでの日本航空株式会社は同日付で新会社に一切の権利義務を承継して解散した。現在の日本航空株式会社はこのときの新会社である日本航空株式会社の法人格を引き継いでいるため、同日が設立年月日となっている。
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