始まりと最盛期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 14:24 UTC 版)
中世から、ロカマドゥールの村は3つの階層に分かれていた。これらは社会の3つの集団を反映している。騎士は最上階に住み、聖職者たちは中間層に、川のほとりに労働者が住まわされた。希少な文書の中で、1105年に崖の上の待避所に小さな礼拝堂が築かれたことに言及されている。その場所はRupis Amatorisといい、チュールのベネディクト会派修道院であるサン・マルタン修道院と、マルシラックのサン・ピエール修道院との境界となっていた。 1112年、チュールの修道院長エブル・ド・テュレンヌはロカマドゥールに移り住んだ。1119年、ラ・マルシュ伯ウードによって最初の寄進が行われた。1148年、最初の奇跡が報告された。聖母マリアへの巡礼は人の群れとなった。聖母マリアの彫像は12世紀のものである。1152年に院長ジェロー・デスコライユは、旅行者からの寄進を元手に宗教的建造物を建てた。作業は12世紀後半に終了した。聖所の修道士によって書かれた奇跡の書が証拠であり、巡礼者たちを大勢受け入れ、ロカマドゥールは既にヨーロッパの評価を得ていた。1159年、イングランド王ヘンリー2世と王妃アリエノール・ダキテーヌはロカマドゥールを訪れ自らの治癒を聖母に感謝している。 1166年に住人の埋葬を行っていた人々は、聖アマドゥールとして伝わるそのままの様子の、完全な状態の遺骸を発見した。ロカマドゥールの人々は街の名のもととなった聖人を見つけたと信じた。聖アマドゥールに関しては少なくとも4つの物語が、半ば伝説としてイエス・キリストに近かった人物と伝えている。 1211年、アルビジョワ十字軍さなかの教皇庁使節アルノー・アマルリックは、ロカマドゥールで冬を過ごすことになった。また、1291年、教皇ニコラウス4世はこの地を訪れた人々に対し、1年で3度の贖宥状を発行した。 13世紀終わりには、ロカマドゥールの輝きと建物の完成はピークに達した。城は3本の塔、広い堀、大勢の見張り番によって守られていた。
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