好角家となった経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 02:57 UTC 版)
好角家となったのは、世を忍ぶ仮の祖父が旅順工科大学で相撲部に所属していたことも影響している。世を忍ぶ仮の小学生時代に祖父と話がしたくて相撲に関する文献を読みあさった。また広島での布教活動中、小学校の砂場での相撲取りがのめり込む切っ掛けとなった。絵画教室で若浪がうっちゃりを見せる勇姿を秀逸に表現して周囲を驚かせ、高校生時代には、受験勉強もそこそこに当時の蔵前国技館近隣の古書店に足繁く通い、相撲に関する諸文献をむさぼるように読み漁り豊富な知識を培っていった(この古書店には後の逆鉾昭廣らも頻繁に通っていたとされている)。 学園祭においては、相撲同好会の展示室の片隅で自ら相撲文字を書き続け、周囲を驚かせた。単に知識を蓄えるのみではなく、大学在学中には後述のフォーク同好会のみならず、相撲同好会にも所属して実践的かつ多角的な相撲競技の分析・稽古に取り組み、大学の校舎の屋上で相撲をしたなどの逸話も残っている。体格に恵まれていれば力士になりたかったと語ったこともある(ベースボールマガジン社発行の大相撲情報誌『VAN VAN相撲界』にて連載コーナー「吾輩は力士になりたかった」も持ち、タイトルページにはモノクロ写真が掲載されていた)。このため相撲に対する見識は高い。 本場所にとどまらず地方場所へも年に数回は必ず通っている。また、本人はあくまで悪魔の姿で観戦したかったが、日本相撲協会理事長直々に「観客が相撲に集中できなくなる」という理由で悪魔の姿での入館を謝絶されてきたので、通常は人間の姿での観戦に留まっている。贔屓の力士は輪島であり、悪魔のヒーローとして崇めている(「悪魔のヒーロー」とは、人間界における蔑称を指すものではなく、魔界においては最高の尊称である)。 悪魔の姿での入館については、北の湖敏満が理事長であった2005年に館内放送のゲストに招かれた際に協会から「どうぞ悪魔の姿で」との返答があり、「出入り禁止が解けた」と解したと、北の湖が亡くなった際にコメントしている。
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