奇行と傍観者的姿勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 08:59 UTC 版)
「ジョン・ランドルフ」の記事における「奇行と傍観者的姿勢」の解説
ランドルフはバージニアの紳士であり、かつてない雄弁家の一人であり、下院の指導者だったが、5年間指導力を発揮した後の1803年には、永遠の傍観者になった。個人的には奇行もあり、終生病気がちであり(結核で死んだ)、酒量が多く、ときとして麻薬を使うことで奇行が増した。ビル・カウフマンに拠れば、「習慣的に麻薬を使っており、アンドリュー・ジャクソンに恋心を抱いたようにも見える独り者」だった。一度はヘンリー・クレイと決闘したが、それ以外では議場での喧嘩っ早さを抑えた。派手な服装をすることが多く、奴隷や狩猟犬を連れてくることも多かった。「クレイが1811年に初めて下院議長に選ばれ、議長職を真の権威あるものにしようとしているときに、さりげなくランドルフに議場から犬を連れ出すよう命じた。そのようなことをした議長はそれまで誰も居なかった。」 ランドルフはクレイと共に1816年にアメリカ植民地協会を設立した3人のうちの1人となった。これは奴隷所有者と奴隷制度廃止論者と協業して、解放された黒人をアフリカの植民地に送り、再入植させようという計画を作った協会だった。その植民地が後にリベリアになった。ランドルフは、他の奴隷所有者達と同様に、理論的に奴隷制度に長く反対してきていた。独立戦争後の20年間で、多くの農園所有者が奴隷を解放したので、バージニア州における解放黒人の比率は1782年の1%足らずから1810年の13.5%まで増加していた。 1819年、ランドルフは死後に奴隷を解放する遺書を作った。「私は私の奴隷全てに自由を与えると遺言する。一人でも所有者であったことを心から後悔している」と記した。3年後の1822年、その遺言の補足書として、解放奴隷を自由州であるオハイオ州に購入した土地に運び、入植させるための金を提供すると規定した。40歳以上の奴隷に一人当たり10エーカー (40,000 m2) の土地が与えられた。その遺志で数百人の奴隷を解放した。この遺志は裁判所に異議申し立てされたが、最終的には奴隷が解放されることになった。長たらしい訴訟の後も、ランドルフの遺志は維持された。1846年、383人の元「ランドルフの奴隷」がシンシナティに到着し、シェルビー郡ラムリーに入植した。
※この「奇行と傍観者的姿勢」の解説は、「ジョン・ランドルフ」の解説の一部です。
「奇行と傍観者的姿勢」を含む「ジョン・ランドルフ」の記事については、「ジョン・ランドルフ」の概要を参照ください。
- 奇行と傍観者的姿勢のページへのリンク