奇禍のエピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 00:40 UTC 版)
「スタンレー・カップ」の記事における「奇禍のエピソード」の解説
スタンレー・カップは多くの酷い目にあい、ひどい場所に置かれたり、粗雑な取り扱いをされたことがあった。 1905年、オタワ・シルバーセブンの選手は、カップをアメフトのようにパントキックして凍結したリドー運河を越せるかどうか試したが、これは失敗に終わり、カップは翌日まで放置されたままであった。 その数週間後、1906年にはモントリオール・ワンダラーズの選手が、ある写真家のスタジオにカップを置き忘れたことがあり、後で写真家の母親が、カップをゼラニウムの植木鉢として使用したことがわかった 。 1924年には、モントリオール・カナディアンズの選手数名が、勝利を祝うためチームオーナーの Leo Dandurand の家に向かう途中で、車のパンクを修理したあとにカップを道端に置き忘れた。しかし、カップは後にそのままの状態で回収された。 1925年、ヴィクトリア・クーガーズのマネージャー兼コーチのレスター・パトリック (Lester Patrick) の息子 Lynn と Muzz が自宅物置でカップを見つけたため、カップに爪で自分達の名前を刻み込んだ。1940年になって Lynn 、Muzz ともにニューヨーク・レンジャースの選手として優勝を果し、正式にカップに名前を刻み込むこととなった。しかし、この年、2人はチームメートとともにカップに放尿するいたずらをした。 ニューヨーク・アイランダーズのブライアン・トロティエ (Bryan Trottier) は、カップを抱いて寝た(これくらいのことは、多くの選手がかつて行った。)だけでなく、カップを取り外して犬のえさ皿として使用したことを認めている。 1987年、エドモントン・オイラーズのマーク・メシエはカップをストリップクラブに持ち込み、ファンにそれを使って酒を飲ませた。原因は不明であるがカップには、ところどころ雑草が絡み付いていた。このため、カップは地域の自動車修理工場で修理された後、ホッケーの殿堂に返送された. 。 1991年のピッツバーグ・ペンギンズ及び1993年のモントリオール・カナディアンズは、カップの浮力をテストしようとして、それぞれマリオ・ルミュー、パトリック・ロワの自宅プールの底に沈めている。(当時カナディアンズのキャプテンであった Guy Carbonneau は、「スタンレー・カップは浮かない」と結論している。) 1996年、コロラド・アバランチのシルヴァン・ルフェーブル (Sylvain Lefebvre) は娘の洗礼をカップで行った。 2003年、ニュージャージー・デビルスの Jiri Bicek は、スロバキアにカップを携えて訪問することを予定していた。しかし、うっかりカナダ国内に置き忘れ、カップは到着しなかった。カップはトロント発の次の便で運送された 。 2004年8月22日、カップ保管者の Walter Neubrand は、タンパベイ・ライトニングのヘッドスカウト Jake Goertzen にカップを届けるため、ブリティッシュコロンビア州フォート・セントジョンに向かった。しかし、バンクーバー国際空港のエアカナダ職員が、出発前に35ポンドの重さがあるカップを重量制限オーバーで下ろしてしまった。このため、カップは目的地から750マイル離れた荷物置き場で1晩を過ごす羽目になり、翌日にフォート・セントジョンに空輸された。
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