夫余の建国伝説との比較とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 夫余の建国伝説との比較の意味・解説 

夫余の建国伝説との比較

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/11 20:45 UTC 版)

東明聖王」の記事における「夫余の建国伝説との比較」の解説

東明王」および「橐離国」も参照 『後漢書』夫余伝に見られる建国神話は、以下の通り。 初,北夷索離國王出行,其待兒於後妊身,王還,欲殺之。侍兒曰:“前見天上有氣,大如雞子,來降我,因以有身。”王囚之,後遂生男。王令置於豕牢,豕以口氣嘘之,不死。復徙於馬兰,馬亦如之。王以為神,乃听母收養,名曰東明東明長而善射,王忌其猛,復欲殺之。東明奔走,南至掩淲,以弓擊水鳖皆聚浮水上東明乘之得度,因至夫餘而王之焉。昔、北方索離国という国があり、王の婢が言われなく身籠ったため、王はこの婢を殺そうとした。婢は「天空神聖なる気が立ちこめ、私に降り注いだために身籠ったのです」と答えた。王はこの婢を軟禁し、後に男子生まれた。王はこの子を豚に食べさせようとして豚小屋前に置いたが、案に相違して豚は息を吹きかけてその子守ろうとし、死ぬことがなかった。王は今度馬小屋持っていったが、馬も同じようその子守ろうとした。王はこれは神意を表すものと思い、その母を許してその男子を東明名づけた。東明成長して弓術優れたので、王は東明勇猛振り恐れて、これを殺そう考えた。そこで東明南方逃走し、掩淲至った。川に向かって東明が弓を射ると、や鼈が浮かんできて作り東明はこれに乗って渡り逃れることができた。そして夫余の地に至ってとなった。 — 後漢書、巻八十中国語版ウィキソースに本記事関連した原文あります後漢書/卷85#夫餘國 「夫余始祖としての東明」の伝説は、古く『論衡』吉験篇にみられるまた、『三国志』夫余伝が『魏略』からの孫引きとして伝えており、これらの史書の中の高句麗伝では、始祖伝説見られない。『魏書』に至って夫余伝はなくなり代わりに高句麗伝のなかで高句麗始祖伝説伝えられるようになったその伝説の骨子は、元来東明伝説夫余建国神話)に、河伯水神)の外孫であること、卵生であること、という要素加わって高句麗夫余から出たこと、名を朱蒙とするというものであるまた、東明伝説において東明弓術優れてたとするのと呼応するように、「朱蒙」という語は「善射」を意味する、とも書かれる。後に高麗時代になって、『三国史記』では、高句麗始祖を「諱が朱蒙、諡が東明聖王」とするようになり、李奎報叙事詩東明王篇(朝鮮語版)』においても、高句麗始祖東明王同一視するようになった。さらに『三国遺事』では民族的統合象徴として檀君系譜化され、「東明王である朱蒙檀君の子である」とされるようになった考えられている。 夫余東明伝説高句麗朱蒙伝説との共通構造は、両者民族的同一性表している。しかしこれらの始祖伝説同一とはみなさず、高句麗始祖伝説卵生説話要素を含むことや、広開土王碑文や『魏書高句麗伝に「東明」の表現みられないことなどから、東明伝説構成元に高句麗独自の要素加えた始祖伝説が創られ、後の『三国史記』において東明聖王朱蒙とが同一視されたとする説もある。

※この「夫余の建国伝説との比較」の解説は、「東明聖王」の解説の一部です。
「夫余の建国伝説との比較」を含む「東明聖王」の記事については、「東明聖王」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「夫余の建国伝説との比較」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「夫余の建国伝説との比較」の関連用語

夫余の建国伝説との比較のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



夫余の建国伝説との比較のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの東明聖王 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS