大鉄電車三重衝突事故
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 22:45 UTC 版)
「日本の鉄道事故 (1949年以前)」の記事における「大鉄電車三重衝突事故」の解説
1929年(昭和4年)4月14日 3月29日に開業したばかりの大阪鉄道(現・近鉄南大阪線)上ノ太子駅 - 二上山駅間(上ノ太子駅東方250m)で、花見客で満員の大阪阿部野橋発吉野行き電車(6両編成、最後尾デニ500形529号)が上り急勾配で故障して停車。2時間修理を試みるも直らず、午後12時10分、古市駅から派遣された検車係が2両ずつ発車させようと連結器を切り離したところ、最後部の2両が突然後退し始めた。乗務員が乗り合わせていなかったためブレーキ操作はされず、あるいはすぐ飛び乗りエアブレーキ、ハンドブレーキを必死にかけたが効かず、急勾配で加速し、上ノ太子駅に停車中の久米寺行き後続電車(デハ100形114号)に衝突、後方3尺のところに停車していた吉野行き後続電車(4両連結、先頭デニ500形502号)を巻き込み三重衝突となった。 吉野行き電車運転士が死亡、乗客12名が重傷、80名あまりが軽傷を負った。新聞報道にはないが、『大鐵全史』(1952年)によれば乗客も1名死亡している。久米寺行き電車は全鋼車ではなかったため大きく破壊されたが、後退してくる電車を発見して窓から逃げ出し難を逃れた乗客も多かった。一方、後続の吉野行き電車では気づけず前部から多くの重傷者が出た。上ノ太子駅員や車掌、運転士は激怒する乗客たちに圧倒され、現場を捨てて逃げ出したという。 1両の定員が132名にもかかわらず400名以上を乗せており、上り急勾配に当時の電鉄界最初の試みという6両連結は無理があったのではないかと問題視された。この日は朝から急勾配で数分または数十分立ち往生する電車が頻発し、午前10時ごろには二十数両が数珠繋ぎとなり、機関車2両を出動させて片づけたほどであった。 のちの調査で、検車係は許可が出る前に独断で後部車両を切り離したことと、設置したという手歯止めが現場周辺から見つからず、虚偽の証言をしていたことが明らかになった。手歯止めとハンドブレーキをかけず、エアーシリンダーの気圧も確かめずに後部車両を切り離したために後退したとされる。 この事故の2日後の4月16日には嵐山電車(現・京福電気鉄道北野線)御室駅(現・御室仁和寺駅) - 妙心寺駅間でタブレットの扱いの誤りにより正面衝突事故(運転士1名死亡)が発生した。度重なる事故に「平常鉄道省が私設鉄道の監督を怠っている結果」と世間の非難が高まり、鉄道省は両社に検査官を派遣、その後警告をすることにした。 事故に関わった車両のうちデハ100形104、114が衝突大破の為廃車。デニ500形502、529がフイ616、618として復旧。
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