大河平地区の焼亡とは? わかりやすく解説

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大河平地区の焼亡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/06 03:57 UTC 版)

大河平事件」の記事における「大河平地区の焼亡」の解説

1877年明治10年)、薩摩藩士族明治政府対する不満から西南戦争勃発した鹿児島県飯野1883年以降宮崎県編入)の大河平地区戦国時代後期より薩摩藩島津氏領内にあり、大河平地区壮年士族らも薩軍加わっていたのであるが、官軍との戦闘による負傷に伴い帰郷する者が少なくなかった大河平地区領主である大河平氏14代隆芳の嫡子鷹丸戦傷に伴い鹿児島本邸ではなく大河平別邸戻って、妻である歌、長男の立夫(5歳)と次男の左彦(3歳)の二人男子長女久米10歳)と次女の英(8歳)、三女の時(7歳)、および生後数ヶ月乳児だった四女の悦と共に在った。 その最中官軍人吉盆地に及び、薩軍小林本営を置きつつ、川内川挟み対峙する形となる。薩軍官軍大河平に入ることを危惧し鷹丸大河平全村焼亡するよう命じた5月4日戌亥の刻(20時から22時頃)、各はちょうど、端午の節句向けてのちまき造り最中にあり、また鷹丸同じく薩軍参加し戦傷により戻った者も少なくなかったが、鷹丸従者数人伴いまずは自らの別邸を焼くと、元屋敷平木場までの60次々と全焼させた(鍋倉のみ、明け方となったために実行されず)。 6月13日飯野越え守備していた薩軍敗戦し、参加していた大河平家の臣下川野通貫清藤泰助らは大河平帰り着くが、彼らは々の焼亡に関して全く聞かされておらず、灰燼に帰した郷村驚愕する。特に大河平家の山林原野田畑管理一切任されていた川野憤激甚だしく以前材木盗難のことで鷹丸叱責されており、宿怨持っていたともされる)、鷹丸一行追いかけて、翌日才谷の陣の岡にて追いついた。すると、清藤鷹丸従者一人斬殺川野鷹丸斬りかかる鷹丸はどうにか逃げ遂すと、残る従者一人連れて鍋倉親戚の家へと逃げ込んだ

※この「大河平地区の焼亡」の解説は、「大河平事件」の解説の一部です。
「大河平地区の焼亡」を含む「大河平事件」の記事については、「大河平事件」の概要を参照ください。

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