大河平地区の焼亡
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1877年(明治10年)、薩摩藩士族の明治政府に対する不満から西南戦争が勃発した。鹿児島県飯野(1883年以降に宮崎県へ編入)の大河平地区は戦国時代後期より薩摩藩島津氏の領内にあり、大河平地区の壮年の士族らも薩軍に加わっていたのであるが、官軍との戦闘による負傷に伴い帰郷する者が少なくなかった。大河平地区の領主である大河平氏14代隆芳の嫡子鷹丸も戦傷に伴い、鹿児島の本邸ではなく大河平の別邸へ戻って、妻である歌、長男の立夫(5歳)と次男の左彦(3歳)の二人の男子、長女の久米(10歳)と次女の英(8歳)、三女の時(7歳)、および生後数ヶ月の乳児だった四女の悦と共に在った。 その最中、官軍が人吉盆地に及び、薩軍は小林に本営を置きつつ、川内川を挟み対峙する形となる。薩軍は官軍が大河平に入ることを危惧し、鷹丸へ大河平の全村を焼亡するよう命じた。5月4日の戌亥の刻(20時から22時頃)、各村ではちょうど、端午の節句に向けてのちまき造りの最中にあり、また鷹丸と同じく薩軍に参加し戦傷により戻った者も少なくなかったが、鷹丸は従者数人を伴いまずは自らの別邸を焼くと、元屋敷・平木場までの60余村を次々と全焼させた(鍋倉の村のみ、明け方となったために実行されず)。 6月13日、飯野越えを守備していた薩軍が敗戦し、参加していた大河平家の臣下の川野通貫・清藤泰助らは大河平へ帰り着くが、彼らは村々の焼亡に関して全く聞かされておらず、灰燼に帰した郷村に驚愕する。特に大河平家の山林・原野・田畑の管理の一切を任されていた川野の憤激甚だしく(以前に材木の盗難のことで鷹丸に叱責されており、宿怨を持っていたともされる)、鷹丸一行を追いかけて、翌日に才谷の陣の岡にて追いついた。すると、清藤が鷹丸の従者一人を斬殺、川野も鷹丸へ斬りかかる。鷹丸はどうにか逃げ遂すと、残る従者一人を連れて鍋倉の親戚の家へと逃げ込んだ。
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