大和銀グループとの統合
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「あさひ銀行」の記事における「大和銀グループとの統合」の解説
2001年9月中間決算から時価会計が導入されるため金融庁や日本銀行は、当時の世界的な株価急落に伴う巨額の損失処理を迫られるあさひ銀が市場から”攻撃”を受けることを最も恐れていたが、同年6月末スタンダード&プアーズが、続く7月にはムーディーズがあさひ銀の格付けを引き下げたことから、行内においても動揺と緊張が生まれた。同年8月以降は経営悪化が市場にも表ざたとなり、特にあさひ銀が中間配当見送りとする噂が出ると株価は乱高下し、同行は流布元やマスコミに抗議した。 この渦中にあって、2001年5月、あさひ銀は海外拠点の撤退と業務を東京三菱銀行へ移譲すると発表。同年7月には伊藤あさひ銀頭取から三木繁光東京三菱銀頭取に包括提携を申し入れるも東京三菱銀は固辞。また千葉銀行、横浜銀行にも統合の打診をするも千葉銀からは固辞され、浜銀との交渉も紆余曲折を経て流れた。次いで、日興証券にも統合を持ち掛けるも、共同出資した共同抵当証券の清算処理に伴ういざこざが旧埼玉銀出身者には記憶に新しく、さらに日興・シティに飲み込まれてしまうのではないかとの懸念を抱き、これもさたやみとなった。加えて統合交渉中、あさひ銀内部における旧協和銀・旧埼玉銀の主導権争いからの対立も明らかとなり、金融庁幹部から「世間からどう見られているのか、分かっているのですか。」とまで迫られる一幕もあるなど迷走を重ねた。 同年8月に入り、あさひ銀は生き残りをかけ、かつてあさひ信託銀行を介し信託部門を買収しようとした大和銀行とオリックスの2社と断続的に統合交渉に入った。 2001年9月に朝日新聞など全国紙が「あさひ銀行・大和銀行と経営統合」と報道(この時点では正式発表せず)。この報道を受け、金融再編に取り残されていた大和銀行との統合に向けて一気に進展することになった。この折、9月9日放送のテレビ朝日「サンデープロジェクト」で、ゲストで出演した舛添要一(当時自民党参議院議員)と田原総一朗(司会)の対話であさひ銀を批判した。これを受けてあさひ銀は、特に舛添の「このまま行くと(2002年)3月につぶれる」と田原の「(あさひ銀行は)よくない銀行」という発言に対して抗議し、謝罪を要求。謝罪せずの場合は法的手段を掛けるとプレスリリース (PDF) で9月10日に公開した。これらを発端に株価が70円台まで暴落し、取り付け騒ぎこそ起きなかったものの経営破綻が噂された。なお、同月20日に舛添の発言通り中間配当見送り・期末配当へ一本化を正式発表。翌21日に大和銀のスーパーリージョナルバンク戦略に参加する形で大和銀ホールディングスとの経営統合を正式発表するに至った。 2002年3月1日、大和銀ホールディングス(前年末に大和銀行・近畿大阪銀行・奈良銀行の株式移転により設立、現在のりそなホールディングス)との株式交換により同社の完全子会社となった。翌03年3月、グループ内再編により埼玉県内の営業を埼玉りそな銀行として会社分割。自行は大和銀行と合併してりそな銀行となった。しかしりそな銀行は発足から僅か2ヶ月あまりで実質国有化された。 2001年10月以降、店頭ポスターや埼玉県内発行の新聞を中心に、梁瀬行雄頭取による経営についての全面広告が顔写真付きで掲載されたが、2003年のりそな銀行国有化まで、経営不振絡みのゴシップ記事の掲載が週刊誌や夕刊紙で続いた。
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