大和銀行事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/02 22:10 UTC 版)
大和銀行事件は、大蔵省がかねがね信託業務を兼営する普通銀行に対して、分離するように行政指導していたが、関西の大和銀行(当時寺尾威夫頭取)だけが、大蔵省の方針に楯突いて信託兼営していた。業を煮やした大蔵省の高橋俊英銀行局長(当時)は、1965年(昭和40年)2月28日の衆院大蔵委員会で「大和銀行が信託部門を分離した場合、都市銀行として銀行業務だけで存立できるかどうかわからないが、一行だけ兼営させるわけにいかない」「大和銀行の9月期決算は悪いので、大蔵省は経営全体について厳重に指導している」との答弁を行った。この発言は銀行の信用を著しく傷つけ、経営基盤をゆるがすものとして、当然大和銀行は大蔵省にかみついた。 この大和銀行と大蔵省との争いを自ら買って出たのが当時関西経済同友会代表幹事だった日向方斉である。日向は関西同友会、関経連に呼びかけて、大和銀行側に立って大蔵省の横暴ぶりを正した。日向の考えは、普通銀行に信託兼営をやめさせようとするならば、金融制度調査会の答申を経て、法律化するなどの手続きをとるべきである。それを一銀行局長のあいまいな行政指導で、私企業の経営の根幹をゆるがすような業務分断を強行するのは、行政の行き過ぎであるというものだった。日向が掲げた正論の前に大蔵省は、それ以上の行政介入ができにくくなり、大和銀行は信託を分離しないですんだ。日向が、当時孤立無援の状況にあった大和銀行の肩を持ったのは、日頃から日向が唱えている、自由主義経済思想に対する危機意識が働いたこともあるが、住金にとっても、設備拡張計画に何かと口を差し挟む通産省の行政指導に対する反発感、といったものが根底にあった。そしてその反発感は、同年秋の「住金事件」で一挙に爆発する。
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