住金事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/02 22:10 UTC 版)
1965年(昭和40年)、住友は不況の最中において和歌山に四号高炉の着工を決定する。不況時は建設資材なども安くなるので、将来の需要の見通しと資金手当てさえつけば、この時期の設備投資は、有益な先行投資となり、景気上昇時には強力な戦力になる。だが当時の鉄鋼業界の首脳経営者たちは、不況克服には設備の自主調整と自主減産を主張し、日向の積極策とはあいいれず、業界内部で意見がまとまらないまま通産省の斡旋待ちにもつれこんだ。通産省が示した各社別粗鋼減産プランは、過去のシェアに基づくものであり、住金はこれに真っ向から反対する。日向も、粗鋼減産を申し合わせて、価格を立て直す必要は認めていたものの、問題は減産の基準である市場占有率をどこの時点に置くかであった。住金は和歌山製鉄所の高炉が、続々完成しつつある時期にあり、過去の市場占有率に固定されると実質的に不利になる。 さらに後発メーカーのため輸出比率が高く、そのため輸出ワクは別にしてもらいたいという考えであった。日向によって減産プランを拒否された通産省は異例の声明を出し、官民協調による業界の安定に反対する企業には、原料炭の輸入を割り当てないと発表し、ライバル企業を巻き込んで通産省対住金の全面戦争に突入する。当時の通産大臣は三木武夫。通産事務次官は特定産業振興臨時措置法案でも名を売った「通産の暴れん坊」こと佐橋滋であった。結局、住金騒動は小林中や中山素平興銀頭取(当時)らの斡旋で、日向が譲歩するという形で収拾した。だが、財界をはじめ世間一般は、日向の反骨ぶりに拍手を送った。この日向の反骨は、単に関西財界の東京財界主導に対し反感だけでなく「経営の根幹に触れる問題に、行政が過度に介入するのはおかしい」という自由主義経済の筋を通すことから発生したものだった。
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