大倉邦彦と東洋大学
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東洋大学は1937年の学長銓衡にあたって、学外から大倉邦彦を招聘した。学外者に就任を要請した背景には次の3つの問題があった。 思想的な問題 - 戦時下の当時では超国家主義への右翼的「革新」が叫ばれていたが、大倉は「言論界の革新陣営に、はなはだ好評であった」人物で、東洋大学の建学精神(護国愛理)と大倉の堅持する精神とが全く合致するものであることを強調し「本学への協力を懇望した」のである。 経営問題 - 1937年(昭和12年)には、学生数600人、新入生270人を予想して予算が立案されたが、実際の学生数は377人で、「収入は予想額の4割の大幅減」であった。このような慢性的な悪化状況にあった大学経営の打破を、「財界において数社の社長を兼ね、相当な財力、経営手腕」を持っていた大倉に期待したのである。 学内教員の問題 - 1931年(昭和7年)頃からの「学祖の精神に還れ」という復古運動の根底には、「東京大学依存の教育体制を徐々に改め、私学の独立を期す」という目的があった。哲学館以来、東洋大学は「東京帝国大学の出店」といわれて、東洋大学の学歴のみで「教壇に立つ者は、絶無の状況で」あったので、校友側は新たな学長を擁立して「東洋大学民族主義」を促進しようという政治的意図があったのである。 それまで教育においても研究においても不振続きであった東洋大学に、学問も具体的な形で社会の役に立たなければならないと考えていた大倉は、その後、卒業生の活動分野をより一層拡大、強化することを狙う。そして「福利教養講座」「満州講座」を発展させ、1939年に専門部拓殖科、1941年には専門部経済教育科を新設したのである。 それまで文科系単科大学だった東洋大学にとって、これら2学科の新設は新たに社会科学系の分野を開拓しただけでなく、学生の就職をサポートすることにもつながった。一時は377人にまで激減した学生数は大倉の施策によって減少傾向はとどまった。その後は学部、予科、専門部とともに学生数が増加し、6年後の1943年度には1491人にまで増加したのである。 大倉先生は就任以来六ヶ年、終に終始無俸給で奉任されたのである。のみならず、度々私財を本学の為に投じてその額実に十数万円の巨額に達してゐるのである。この二三の事実の前にも我々は先生の御深恩を終生忘れることは出来ない。 — 『東洋大学護国会々報』 第11号 昭和18年10月
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