大倉邦彦と東洋大学とは? わかりやすく解説

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大倉邦彦と東洋大学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 18:08 UTC 版)

大倉邦彦」の記事における「大倉邦彦と東洋大学」の解説

東洋大学1937年学長銓衡にあたって学外から大倉邦彦招聘した。学外者に就任要請した背景には次の3つの問題があった。 思想的問題 - 戦時下当時では超国家主義への右翼的革新」が叫ばれていたが、大倉は「言論界革新陣営に、はなはだ好評であった人物で、東洋大学建学精神護国愛理)と大倉堅持する精神とが全く合致するのであることを強調し本学への協力懇望したのである経営問題 - 1937年昭和12年)には、学生600人、新入生270人を予想して予算立案されたが、実際学生数は377人で、「収入予想額の4割の大幅減であったこのような慢性的な悪化状況にあった大学経営打破を、「財界において数社の社長兼ね、相当な財力経営手腕」を持っていた大倉期待したのである学内教員問題 - 1931年昭和7年)頃からの「学祖精神に還れ」という復古運動の根底には、「東京大学依存教育体制徐々に改め私学独立期す」という目的があった。哲学館以来東洋大学は「東京帝国大学出店」といわれて、東洋大学学歴のみで「教壇に立つ者は、絶無状況で」あったので、校友側は新たな学長擁立して東洋大学民族主義」を促進しようという政治的意図があったのであるそれまで教育において研究においても不振続きであった東洋大学に、学問具体的な形社会の役に立たなければならない考えていた大倉は、その後卒業生活動分野より一層拡大強化することを狙う。そして「福利教養講座」「満州講座」を発展させ、1939年専門部拓殖科、1941年には専門部経済教育科を新設しのであるそれまで文科系単科大学だった東洋大学にとって、これら2学科新設新たに社会科学系の分野開拓しただけでなく、学生就職サポートすることにもつながった一時377人にまで激減した学生数は大倉施策によって減少傾向とどまったその後学部予科専門部とともに学生数が増加し6年後の1943年度には1491人にまで増加したのである大倉先生就任以来ヶ年、終に終始俸給で奉任されのであるのみならず、度々私財本学為に投じてその額実に十数万円巨額達してゐるのである。この二三事実前にも我々は先生の御深恩を終生忘れることは出来ない。 — 『東洋大学護国会々報』 第11号 昭和18年10月

※この「大倉邦彦と東洋大学」の解説は、「大倉邦彦」の解説の一部です。
「大倉邦彦と東洋大学」を含む「大倉邦彦」の記事については、「大倉邦彦」の概要を参照ください。

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