大トルコ戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 04:43 UTC 版)
詳細は「大トルコ戦争」を参照 コソボは1683年から1699年までの間、セルビア人の支援の下、一時的にオーストリアの支配下に置かれたが、その後まもなく敗退し、撤退していった。オーストリアは、オスマン帝国からセルビアを解放するのと引き換えに、セルビアにローマ・カトリックを持ち込もうとしていたことから、セルビア人との間に不和が生じていた。オーストリア撤退後もセルビア人はオスマン帝国に対する反乱を続けたが、1690年代にはオスマン帝国によって反乱は鎮められた。過去に明らかな生命の危険から逃れたことのある、セルビア正教会・ペーチ総主教のアルセニイェ3世(Arsenije III)は1690年、3万7千家族の人々を引き連れてコソボを脱出した。脱出した人々お多くはセルビア人であり、コソボが再びオスマン帝国の支配下に服する情勢の中、セルビア人に対する帝国の報復を恐れてのことであった。この頃から、報復を恐れたセルビア人が大規模に脱出したコソボには、イスラム教徒のアルバニア人が移住してくるようになった。オスマン帝国による締め付けによる、正教徒のコソボからの集団脱出は18世紀にも起こっている。正教徒のセルビア人は幾たびにもわたってオスマン帝国からハンガリー領に脱出しているが、彼らは行く先でも差別的な待遇とカトリック化の圧力を受けることとなる。そのため、セルビア人の中にはハンガリー領からオスマン帝国領に逆流する者も少なくなかった。 この大トルコ戦争(Great Turkish War、1683年 - 1699年)によってコソボには大規模な破壊がもたらされた。これはセルビアの民族伝説の中心的な話題のひとつとなっている。1689年10月、ハプスブルク君主国の辺境伯・バーデンのルートヴィヒが率いる小規模な軍がオスマン帝国に侵入し、ベオグラードに続いてコソボを占領した。多数のセルビア人やアルバニア人がこのオーストリア人たちに忠誠を誓い、その一部はルートヴィヒの軍に合流した。しかしこれは大きな意義をもたらすことはなく、多くのアルバニア人は、オーストリアの侵入に対してオスマン帝国側について戦った。オスマン帝国による大規模な反攻を受けてオーストリア軍はニシュの要塞まで押し戻され、後にベオグラードまで撤退し、ついにはドナウ川以北のオーストリア領にまで押し返された。
※この「大トルコ戦争」の解説は、「コソボの歴史」の解説の一部です。
「大トルコ戦争」を含む「コソボの歴史」の記事については、「コソボの歴史」の概要を参照ください。
大トルコ戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 06:42 UTC 版)
1683年に王領ハンガリーでテケリ・イムレらが反ハプスブルクの反乱を起こした。彼らはオスマン帝国に援助を要請したため、大宰相カラ・ムスタファ・パシャは大軍を率いて7月にウィーンを包囲した。しかしウィーンの防御は硬く、包囲戦は長期化し9月にはポーランド軍とドイツ諸侯軍がウィーンに到達し、オスマン軍と衝突した。長引く戦争でオスマン軍の士気は低下していたため、第二次ウィーン包囲は失敗してしまい、カラ・ムスタファを処刑してからは大トルコ戦争に対して有効な手を打てず、1686年にハンガリー支配の中心地のブタを奪われ、1687年のモハーチの戦いでオスマン帝国軍が敗北すると反乱が起こり退位、弟のスレイマン2世に帝位を譲り死ぬまで幽閉された。メフメト4世の死の数年前の1691年に弟のスレイマン2世の病気と差し迫った死によりメフメトを復位させる陰謀が発覚したが失敗した。
※この「大トルコ戦争」の解説は、「メフメト4世」の解説の一部です。
「大トルコ戦争」を含む「メフメト4世」の記事については、「メフメト4世」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書から大トルコ戦争を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。

- 大トルコ戦争のページへのリンク