多分野での功績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 21:36 UTC 版)
「セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバン」の記事における「多分野での功績」の解説
この頃までにヴォーバンは、当時確立していた軍事技術と自らの実戦経験を合わせて、要塞攻城法と要塞築城法を確立した。攻城法としては、1673年のマーストリヒト攻囲戦で平行壕を、アウクスブルク同盟戦争では坑道戦や跳飛射撃(砲弾を地面で跳弾させ多数の敵を殺傷する射撃法)を導入した。築城法としては、以下に述べる「第一方式」から「第三方式」と呼ばれる基本設計を体系化した。生涯で、新たに基礎から築いた要塞が37か所、改修に携わった要塞が300か所、攻略した要塞が53か所とされている。 1677年に、陸軍大臣ルーヴォワと、財務大臣コルベールの親友として要塞総監に就任する。1703年1月14日にフランス元帥に叙せられる。同年、『要塞攻囲論』(Traité de l'attaque des places)を著す。だがスペイン継承戦争(1702年 - 1713年)では、ヴォーバンが築城した要塞が攻略されるケースもあり、批判を受けることもあった。また、同時期に執筆した『要塞防御論』(De la defense des places)は芳しい評価を得られなかった。 ヴォーバンは農林業や金融政策、植民地経営などに関する著作も残している。またフランス科学アカデミーの名誉会員でもあった。1690年代にはフランス各地の国勢調査を推進し、「フランスのウィリアム・ペティ」とも綽名された。 彼はまた都市計画家として、ヌフ=ブリザックのように自分で生み出した新しい町を計画した。他には内部を碁盤割にしたパターンの最初例であるアラス、1679年のロンウィ 、1680年のザールルイ、1679年のユナング、1681年のモン=ルイ、1692年のモン=ドー・ファンなどがある。一方でおりにふれて建築家として、リールの司令官邸、教会、造兵廠やジグェ、プリアンソンの教会などの単独の建物も設計し、オーネやユッセの城も修復した。建築家としての長所がもっとも評価されるのは、オレロン、プラヴリンヌやバイヨンヌの塁壁のマッシヴな簡潔さであり、列柱、エンタブラチュア、トロフィー、彫刻した羽目板で豊かにしたリールのパリ門のバロック的華麗さ、モブージュのモン・ゲートの単純な壮大さまで範囲の広がるモニュメンタルな門である。これらにおいて実力が同時代の建築家リベラル・プリエアンとフランソワ・プロンデルなどがなしとげた高貴な厳格さと壮大さに接近したとみられている。 ヴォーバンはルイ14世の尖兵となって働いたが、同時にルイ14世の政策を批判もしている。1685年のフォンテーヌブローの勅令(ナントの勅令の廃止)には特に経済学的な観点から反対した。1707年には課税の平等と下層民の負担軽減を説いた『王室の十分の一税』(Projet D'une Dixme Royale)を著す。同書は重農学派の先駆的業績として知られているが、ルイ14世はこの書に怒り、焚書を命じたという。 同年、パリにて死去した。遺体の一部は現在もオテル・デ・ザンヴァリッドに安置されている。
※この「多分野での功績」の解説は、「セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバン」の解説の一部です。
「多分野での功績」を含む「セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバン」の記事については、「セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバン」の概要を参照ください。
- 多分野での功績のページへのリンク