境内拡張と府社昇格とは? わかりやすく解説

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境内拡張と府社昇格

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 15:31 UTC 版)

網野神社」の記事における「境内拡張と府社昇格」の解説

1921年大正10年)、建築から百数十年が経過した本殿改築必要性と、現在地人家近く類焼の危険があることを理由として京都府に「神社移転改築願」を提出した実際に集落隣接するとはいえ中心地はないた類焼の危険が極めて大きいとも思われず、当時本殿建物上屋覆われていたことから、老朽化著しいために改築要するとまでは必ずしも言えない状態であった実際に新たな本殿新築した後も旧本殿上屋撤去したのみでそのまま残り1924年大正13年)に柿葺き屋根葺き替え、翌1925年大正14年)に境内社織(こおり)神社」として祭祀行っている。蠶織神社丹後ちりめん産業の発展願って織物信仰の神と位置付けられ1951年昭和26年)に発足するちりめん祭」のシンボルとなった。その社殿は、21世紀現在まで活用されていることから、あらかじめこうした運用ねらって移転であった可能性指摘されている。 1904年明治37年)、網野町隣接する浅茂川村合併して町村境界変更されたことにより、かつて網野町集落西端にあった網野神社は、地理的に網野町中心地鎮座することとなった合併当初は、網野集落と浅茂川集落とは距離を保っていたが、1915年大正4年)の京都府竹野郡全図(『丹後国竹野郡誌』所載によれば間に人家立ち並んで集落一体化し1921年大正)には郡役所網野神社近隣南方移転された。網野神社新たな本殿建設参道向き変更は、こうした周辺環境の変化適応してのものであった思われ新たな本殿郡役所のある南を向いて建てられ新たな参道から道なりに100メートルの場所に郡役所があった。 その後1926年大正15年)、府社への昇格申請を行う。 当時網野神社竹野郡74あった村社1つにすぎず、より上の社格である郷社竹野村丹後町)の竹野神社であったが、1925年大正14年時点竹野村人口は1,309であったのに対し網野町人口は5,836人とはるかに多く官公庁整備に伴い竹野郡中心地として確固たる地位築いていた。網野神社府社昇格申請は、こうした網野町発展に伴い郡内最高の社格を持つ神社我らがもとにという町民らの期待があったとみられる1927年昭和2年)の北丹後地震では、大正期建立したばかりの拝殿渡殿倒壊するなど大きな被害受けたが、1929年昭和4年)に改めてこれら被害受けた建物再建修復行い、さらに透塀神饌所玉垣手水舎建立重ねて境内整備し1943年昭和18年府社昇格した

※この「境内拡張と府社昇格」の解説は、「網野神社」の解説の一部です。
「境内拡張と府社昇格」を含む「網野神社」の記事については、「網野神社」の概要を参照ください。

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