境内拡張と府社昇格
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1921年(大正10年)、建築から百数十年が経過した本殿の改築の必要性と、現在地が人家に近く類焼の危険があることを理由として京都府に「神社移転改築願」を提出した。実際には集落に隣接するとはいえ中心地ではないため類焼の危険が極めて大きいとも思われず、当時の本殿建物は上屋に覆われていたことから、老朽化が著しいために改築を要するとまでは必ずしも言えない状態であった。実際に、新たな本殿を新築した後も旧本殿は上屋を撤去したのみでそのまま残り、1924年(大正13年)に柿葺きの屋根に葺き替え、翌1925年(大正14年)に境内社「蠶織(こおり)神社」として祭祀を行っている。蠶織神社は丹後ちりめん産業の発展を願って織物信仰の神と位置付けられ、1951年(昭和26年)に発足する「ちりめん祭」のシンボルとなった。その社殿は、21世紀現在まで活用されていることから、あらかじめこうした運用をねらっての移転であった可能性が指摘されている。 1904年(明治37年)、網野町が隣接する浅茂川村と合併して町村の境界が変更されたことにより、かつて網野町集落の西端にあった網野神社は、地理的に網野町の中心地に鎮座することとなった。合併当初は、網野集落と浅茂川集落とは距離を保っていたが、1915年(大正4年)の京都府竹野郡全図(『丹後国竹野郡誌』所載)によれば間に人家が立ち並んで集落は一体化し、1921年(大正)には郡役所が網野神社の近隣、南方に移転された。網野神社の新たな本殿の建設と参道の向きの変更は、こうした周辺環境の変化に適応してのものであったと思われ、新たな本殿は郡役所のある南を向いて建てられ、新たな参道から道なりに約100メートルの場所に郡役所があった。 その後、1926年(大正15年)、府社への昇格申請を行う。 当時の網野神社は竹野郡に74あった村社の1つにすぎず、より上の社格である郷社は竹野村(丹後町)の竹野神社であったが、1925年(大正14年)時点で竹野村の人口は1,309人であったのに対し、網野町の人口は5,836人とはるかに多く、官公庁の整備に伴い、竹野郡の中心地として確固たる地位を築いていた。網野神社の府社昇格申請は、こうした網野町の発展に伴い、郡内最高の社格を持つ神社を我らがもとにという町民らの期待があったとみられる。 1927年(昭和2年)の北丹後地震では、大正期に建立したばかりの拝殿や渡殿が倒壊するなど大きな被害を受けたが、1929年(昭和4年)に改めてこれら被害を受けた建物を再建、修復を行い、さらに透塀、神饌所、玉垣、手水舎の建立を重ねて境内を整備し、1943年(昭和18年)府社に昇格した。
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