塩田の改良
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/17 01:10 UTC 版)
1946年(昭和21年)8月から始まった日本本土や海外からの引き揚げで沖縄の人口は増加し塩の需要もとみに増え、今までの生産量ではとても間に合う筈はなく、政府ではその奨励策として煙草による褒賞制をとった。その頃の煙草はとても貴重品であったので生産意欲は向上した。会社では前原市から引き継いだ小型平釜式の三工場を中型平釜式に改善するとともに、更に工場を三つ増やし、六工場をフルに回転し操業した。それでもなお沖縄全体の需要を満たすことができず、塩の価格は高騰をつづけ、奥武島[要曖昧さ回避]の旧塩田や桃原の内海の潟、古謝の海岸に個人の塩田ができるようになった。 1948年(昭和23年)8月頃になると水産関係の水揚げも多くなり、スク(スクガラス、小魚、塩からにする)の季節になると塩の需要を満たすことができない程であった。そこで当時の琉球民政府工業課とも検討を重ね、将来の需給体制を整えるには年間6千トンの需要量をおさえそれを目標に生産をあげるための計画を策定した。それによると現状は自然の天候、潮の干満に左右されるので入浜式(入浜式塩田)を改良すると同時に塩田の面積は現在の8万坪を更に3万坪増やし、護岸工事をして潮志雄を制禦すれば、年間の稼働日数を増やすことができ、沼井(クミのこと)の改良をすれば労働力の軽減をはかることができる。 1951年(昭和26年)から36万円の費用をかけて護岸の構築を始め塩田の改良工事にとりかかった。従来の沼井はそれぞれの工場のかこいの中に大型のものがあってそこまで砂を運び海水をかけて、それから鹹水(かんすい)をとり、更にその砂を運んで散布する方法になっていて、距離的にも労働力の上からも不経済である。これを小型の沼井を塩田の適当な広さに割当ててつくり、更にこれらから中継タンクまでパイプで自然流下式(流下式塩田)に結んで鹹水(かんすい)をとり、それぞれの沼井までは溝を通して海水を導く方法に改善した。更に護岸を構築して水門を設け、海水の水位を人為的に操作できるようにすることによって、従来は天候がよくても潮の干満に左右されることがあったが、今後は天候さえよければいつでも仕事ができること、又塩田は適当に海水に浸す必要があるがこれも潮の干満をまたず、必要なときに水門を開いて海水を流すことができるようになった。沼井の改良によって塩田の作業がらくになり従来の塩田の倍以上の広さの仕事ができるように期待をかけられていた。
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