地方行政の道へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/03/08 14:20 UTC 版)
1982年 教育長を退任し、国体準備のため県体育協会に副会長職を新設して就任した。しかし時を同じくして、鳥取県東部の大物代議士古井喜実が次期総選挙で引退すると宣言したため、空いたポストをめぐって県議、市長、知事、副知事などの間でドミノ倒しのようなことが始まった。そして鳥取市長が衆院選転身の宣言を行った時、市議会保守会派は教育長としての実績を評価して西尾優を担ぐことにした。 1983年 選挙は予想外なことに数百票差の薄氷の勝利だった。これは結局、古井喜実の後継に鳥取県知事の平林鴻三が出馬することになることなど保守系による政治ポストたらい回しに市民の強い反発があったこと、首長に官僚出身ばかりが続いていることに対する市民の倦怠感もあったためとされている。 1985年 教育長時代から中心となって準備してきた国民体育大会を開催した。また選挙時からのモットーを「若者の定着する街づくり」「地場産業の育成」「足腰の強い農林漁業」「観光の推進」「福祉の心を育てる」「参加するスポーツ、参加する文化活動」「清潔な明るい国体」「同和事業、教育の推進」として、なかでも企業誘致に体を張って東京、大阪を飛び回った。86年には、人とモノの交流の打診のため韓国清州市も訪ね、名誉市民第一号となった。これが現在も続く姉妹都市交流の礎となった。 1987年 二期目の選挙は無風だった。二期目は89年に市制百周年で行事が目白押しだったが、中でもその中核は鳥取・世界おもちゃ博だった。その準備で88年にはドイツハーナウ市を訪問し、将来の姉妹都市の礎を築いた。 1988年 休日も夜もスケジュールで埋める日々だったが、スピーチの最中に脳出血で倒れた。それから入院とリハビリを経て四ヶ月後に復帰したが、右半身に麻痺が残った。復帰はおもちゃ博には間に合ったが、倒れる前のように全力投球で仕事に取り組むことはできないとして、任期を一年残しての辞職を決断した。
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