土に還るボタいっぽんの鬼あざみ
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季 節 | 夏 |
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評 言 | 山本作兵衛が描き残した一連の炭坑絵が、昨年5月、日本では初めてユネスコの世界記憶遺産に登録された。「昔のヤマの有様を描いて子孫の語り草に残しておくのも、また一興かと思い、脳裏に浮かぶまま、一枚また一枚と描き重ね」た作品は、千点をこえる。 日本の近代化を支えた筑豊炭田の石炭産業も、石油へ転換するいわゆるエネルギー革命によって衰退する。地底の闇から一転、失業対策事業の日雇いとして炎天に身をさらすこととなった坑夫は多かった。60年安保のころからであり、それは、「総資本対総労働」が対決した三池争議に象徴される。 穴井太には、もう一人、同じく筑豊に根を張る坑夫上がりの記録文学作家上野英信との交流もあった。英信は、1960年、『追われゆく坑夫たち』でデビュー、その後廃屋の炭住に一家で住みつき、【筑豊文庫】の看板を掲げて多くのルポを発信し続けた。 作兵衛は、炭坑記録画家として、記憶などを基に炭鉱労働者たちの生きざまを描き、英信は、実体験や取材を基に、小ヤマの底辺の坑夫たちをペンで記録した。作兵衛を敬愛して止まぬ英信は、度々太と連れ立って彼を訪ね茶碗酒を酌み交わし、太は句友たちと彼の画文集の出版祝賀会を開いたりもした。 掲句は、1968年、太42歳の時の作品、「ぼくにとって、風化するボタ山に咲く鬼あざみは、上野英信氏であり、今は亡き山本詞青年(注)であり、またなつかしい山本作兵衛さんにほかならない」と書いている。当然ながら、数多のボタ山は坑内深く命を落とした犠牲者たちの墓碑群であり、鬼あざみは供花、そして一句はレクイエムでもある。 今、筑豊に僅かに残る二つのボタ山は、青く、筑豊富士などと呼ばれたりしているが、往時を知る者も少なくなってきた。 三人は、泉下にあって昨年の福島の原発事故を知らないが、今、それぞれが残した絵や文章、そして俳句で、告発し続けている。 (注)「坑夫継ぐ吾をめぐりて争いき父母らは貧しき明暮れの日に」などの歌を遺して坑内事故で殉職。 |
評 者 | |
備 考 |
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