国際金融家ロスチャイルド
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 03:32 UTC 版)
「イングランド銀行」の記事における「国際金融家ロスチャイルド」の解説
1807年、大英帝国内での奴隷貿易が禁止される。バルト海貿易で富を築き、当銀行理事を務めたジョン・ソーントンは、息子ヘンリや総裁を務めたサミュエルらとともに奴隷貿易廃止法案に尽力していた。この禁止は帝国内の経済に長期的な打撃となり、1815年恐慌と1819年恐慌の背景となった。 1816-1817年に兌換が部分的に再開され、1823年で全面的に再開された。1822年にハプスブルク家がロスチャイルド一族全員に男爵位を授与している。このころ外債が洪水のように契約されていた。ロスチャイルドは請負人として最も活躍した。ロスチャイルドはロンドンの投資家の関心を呼ぶためにスターリング・ポンド建て外債の利率を定めていた。また、1823年と1825年に代理商取引法が制定されたことは契約を促したが、取引所の利害関係を混乱させた。 1823年6月、国庫委員会の議事録にネイサン・メイアー・ロスチャイルドが登場する。同年3月すでに、フランスが総額1億2000万フランの公債を発行するにあたり、ジャコブ・マイエール・ド・ロチルドがシンジケート団(以下、シ団)を組織し引受けた。アッシニアの担保に財産を没収された教会・貴族の反発があるも、フランス政府は低利借り換えを画策。実現に向けて公債相場を維持するため、ネイサンは翌年5月イングランド銀行から1年間金100万ポンドの保証を受ける。12月1日に保証額中30-50万ポンドを持ち出し、担保としてイギリスの「整理公債」を預託、持ち出した金塊はフランス銀行に預け入れた。結局、利率が低すぎてシ団は半壊。ロスチャイルドは残り、逆に力を誇示することになった。 1825年、イングランド銀行から欧州まで恐慌の波が及んだ。ラテンアメリカ投機の一部について株価の暴落したことが引き金となった。フランス銀行に正貨の供給を受けたおかげで、破綻寸前で踏みとどまった。この惨事は社会運動に発展し、紡績工場法が修正されたり、労働組合が承認されたりした。また、銀行券、特に小額紙券の流通量を著しく減らす。
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