国際社会との関連
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 01:21 UTC 版)
「第二次エチオピア戦争」の記事における「国際社会との関連」の解説
アメリカでは、アフリカ系アメリカ人がアメリカ共産党ハーレム支部などを中心に、エチオピアに対して医薬品を購入するための資金を集めたり義勇兵を組織するなどの支援を行い、西アフリカでは、黒人知識層などがエチオピアを応援した。 日本では、日露戦争時代から親エチオピア感情があり、対して対伊関係では東京オリンピック時の「イタリーの裏切り」以来の反伊感情が残っていた。またエチオピア側も日本の支援を期待していたが、日本側の対応は冷淡であった。新聞は、人種差別的な白人社会に対する有色人種の挑戦とみなし、エチオピアへの支援を呼びかけた。1935年6月には、頭山満や議員などが「エチオピア問題懇談会」を立ち上げ、イタリアに侵略の停止を求める決議案を送付し、7月24日には大日本生産党の内田良平がムッソリーニに対する抗議電報を送付した。7月16日には杉村陽太郎駐伊大使がムッソリーニとの会見で「エチオピア問題に政治的関心無し」という発言を行ったが、7月19日には広田弘毅外相がエチオピア問題に関心があるという発言を行ったため、イタリアでは日本に対する不信感が生まれた。しかし日本政府側は「いずれにせよ、イタリアに対して好意的態度をとり続ける」こととし、イタリア側も「アジア人とアフリカの『未開人』を同一視しない」と述べ、日伊間の友好関係を保とうとした。しかしイギリスがイタリアに対して圧力をかけ始めると、満州事変でのイギリスの対応にいらだっていた日本政界にはイタリアに対する同情心が広がった。これは後のイタリアとの同盟関係構築につながった。 「エチオピアと日本の関係#第二次イタリア・エチオピア戦争と日本」も参照 ナチス・ドイツはイタリアの目をヨーロッパからこの戦争に逸らさせるためにイデオロギーには相容れないエチオピアに武器を輸出し長引かせようとした。ベルリンの駐在員であったウィリアム・シャイラーは1935年10月4日の日記にこう記している。 10月4日、ベルリン。ムッソリーニがアビシニアの征服を開始した。―どっちにしても勝つのはヒトラーだ。
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