噴火の経緯とは? わかりやすく解説

噴火の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/20 20:19 UTC 版)

還住 (青ヶ島)」の記事における「噴火の経緯」の解説

天明5年3月10日1785年4月18日)、青ヶ島大噴火始まった。このときの噴火八丈島から見ることができたため、「無人島」の探検後八丈島戻ってきていた惣兵衛は船に救援物資積み込み、早速青ヶ島へと向かった3月10日八丈島出発した兵衛は翌11日には青ヶ島近海到着したが、島全体黒雲覆われ、時々稲妻のような火の玉が飛ぶのが見えるが、島の様子がほとんどわからない状態であった。しかも黒煙青ヶ島近海上の兵衛の船にも襲いかかるありさまで、潮の流れ悪くなったこともあり上陸断念せざるを得なかった。 3月後半になって青ヶ島から噴火様子についての注進名主の七太夫らによって八丈島もたらされた。それによると、3月10日午前池之沢から噴火始まり、運よく北西からの風であったため噴石は島の南側降下したが、火山灰は島全体降りかかった噴火その後激しく続き風向きによっては池之沢北方人家がある方向にも火山灰降り積もった激し噴火によって食糧の不足とともに水不足が深刻となり、島全体降り続く火山灰のために昼も暗くなって昼夜区別がつかなくなるほどであったこのような状況を受け、もはや青ヶ島生活することは不可能であり、島民はいったん八丈島避難するしか方法がないと、名主の七太夫はじめとする島民八丈島島役所申し立てたこのため八丈島島役所では4月10日1785年5月18日)に青ヶ島視察船を出し噴火による被害状況の確認行ったその結果絶え間なく噴火による噴石火山灰噴出している状況続いており、耕作地は厚い火山灰覆われ畔がわからなくなっているほどであり、ほとんどの草木枯れ果てはまった見えず飲料水極度に不足してわずかにある雨水火山灰などの影響で飲むに耐えない状態であるなど、深刻な状況改め明らかになった。このため青ヶ島からの帰り視察船には49人の青ヶ島島民乗せて八丈島向かった青ヶ島から離れる際には船中火山灰降り注ぎ苦労したものの、視察船は無事に八丈島へ戻ることができた。帰島後七太夫らの申し立て通り、島を離れる以外島民生き延びる方策がないことが報告され青ヶ島島民離島決定された。

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噴火の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 06:33 UTC 版)

2010年のエイヤフィヤトラヨークトルの噴火」の記事における「噴火の経緯」の解説

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