噴火の経緯
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天明5年3月10日(1785年4月18日)、青ヶ島で大噴火が始まった。このときの噴火も八丈島から見ることができたため、「無人島」の探検後、八丈島に戻ってきていた惣兵衛は船に救援物資を積み込み、早速青ヶ島へと向かった。3月10日、八丈島を出発した惣兵衛は翌11日には青ヶ島近海に到着したが、島全体が黒雲に覆われ、時々稲妻のような火の玉が飛ぶのが見えるが、島の様子がほとんどわからない状態であった。しかも黒煙は青ヶ島近海上の惣兵衛の船にも襲いかかるありさまで、潮の流れも悪くなったこともあり上陸を断念せざるを得なかった。 3月後半になって、青ヶ島から噴火の様子についての注進が名主の七太夫らによって八丈島へもたらされた。それによると、3月10日午前に池之沢から噴火が始まり、運よく北西からの風であったため噴石は島の南側に降下したが、火山灰は島全体に降りかかった。噴火はその後も激しく続き、風向きによっては池之沢北方の人家がある方向にも火山灰が降り積もった。激しい噴火によって食糧の不足とともに水不足が深刻となり、島全体が降り続く火山灰のために昼も暗くなって昼夜の区別がつかなくなるほどであった。 このような状況を受け、もはや青ヶ島で生活することは不可能であり、島民はいったん八丈島へ避難するしか方法がないと、名主の七太夫をはじめとする島民は八丈島の島役所に申し立てた。このため八丈島の島役所では4月10日(1785年5月18日)に青ヶ島の視察船を出し、噴火による被害状況の確認を行った。その結果、絶え間なく噴火による噴石や火山灰が噴出している状況は続いており、耕作地は厚い火山灰に覆われ畔がわからなくなっているほどであり、ほとんどの草木が枯れ果て緑はまったく見えず、飲料水も極度に不足してわずかにある雨水も火山灰などの影響で飲むに耐えない状態であるなど、深刻な状況が改めて明らかになった。このため青ヶ島からの帰りの視察船には49人の青ヶ島島民を乗せて八丈島へ向かった。青ヶ島から離れる際には船中に火山灰が降り注ぎ、苦労をしたものの、視察船は無事に八丈島へ戻ることができた。帰島後七太夫らの申し立て通り、島を離れる以外島民が生き延びる方策がないことが報告され、青ヶ島の島民の離島が決定された。
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噴火の経緯
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