和製ロイドとは? わかりやすく解説

和製ロイド

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 16:35 UTC 版)

正邦宏」の記事における「和製ロイド」の解説

1920年大正9年4月国際活映南豊島郡淀橋町大字角筈十二社現在の新宿区西新宿)に角筈撮影所現存せず)を新設するにあたり、同撮影所長に就任した桝本清紹介によって入社した同年8月7日公開され千歳高瀬實(のちの高勢實乘)が主演するサイレント映画湖畔乙女』(監督不明)に出演して、満24歳映画界デビューした1921年大正10年9月松竹蒲田撮影所移籍した1924年大正13年)には、同年6月21日公開された『大和魂』(監督野村芳亭)、同年8月1日公開された『島に咲く花』(監督小沢得二)で主演しているが、同年10月帝国キネマ演芸帝キネ)によるヘッドハンティングに応じて五月信子藤間林太郎とともに松竹キネマ退社帝キネ小坂撮影所所属同じく松竹蒲田から移籍した小沢得二監督作主演した1925年大正14年)、帝キネ内部分裂によって設立され東邦映画製作所移籍になるが、同社はすぐに解散となった。『現代俳優名鑑によれば当時、正邦は神田区神保町1番地現在の千代田区神田神保町)に住みキリスト教を自らの宗教であるとし、すでに妻・英子結婚していたという。身長は5尺4寸4分(約164.8センチメートル)、体重14200匁(約53.3キログラム)、常用煙草西洋煙草で、酒はキリンビールであるといい、当時の正邦にとっての代表作は、『金色夜叉』(監督賀古残夢1922年)における「富山忠次」役、および『狂へる劔技』(監督牛原虚彦1921年)における「青年肺病患者」役であるという。 解散後松竹キネマ復帰した1926年大正15年6月15日公開された『霧の中の灯』(監督鈴木重吉)が記録に残る最後の出演作である。『日本映画俳優全集男優編』(同項の執筆田中純一郎キネマ旬報社)は以降消息不明没年不詳とするが、実際には、この後中国大陸向けて初代水谷八重子とともに巡業出ており、その旅程において胸を病んで関東州大連現在の中華人民共和国遼寧省大連市)の満鉄病院現在の大連大学付属中山病院)に入院し1928年昭和3年6月1日同地死去している。満32歳没。同年遺族の手により『故正邦宏追悼録 オレンヂのかほり』が刊行された。

※この「和製ロイド」の解説は、「正邦宏」の解説の一部です。
「和製ロイド」を含む「正邦宏」の記事については、「正邦宏」の概要を参照ください。

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