和製ロイド
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1920年(大正9年)4月、国際活映が南豊島郡淀橋町大字角筈字十二社(現在の新宿区西新宿)に角筈撮影所(現存せず)を新設するにあたり、同撮影所長に就任した桝本清の紹介によって入社した。同年8月7日に公開された林千歳と高瀬實(のちの高勢實乘)が主演するサイレント映画『湖畔の乙女』(監督不明)に出演して、満24歳で映画界にデビューした。1921年(大正10年)9月、松竹蒲田撮影所に移籍した。1924年(大正13年)には、同年6月21日に公開された『大和魂』(監督野村芳亭)、同年8月1日に公開された『島に咲く花』(監督小沢得二)で主演しているが、同年10月、帝国キネマ演芸(帝キネ)によるヘッドハンティングに応じて、五月信子、藤間林太郎らとともに松竹キネマを退社、帝キネの小坂撮影所に所属、同じく松竹蒲田から移籍した小沢得二の監督作に主演した。 1925年(大正14年)、帝キネの内部分裂によって設立された東邦映画製作所に移籍になるが、同社はすぐに解散となった。『現代俳優名鑑』によれば、当時、正邦は神田区表神保町1番地(現在の千代田区神田神保町)に住み、キリスト教を自らの宗教であるとし、すでに妻・英子と結婚していたという。身長は5尺4寸4分(約164.8センチメートル)、体重14貫200匁(約53.3キログラム)、常用煙草は西洋煙草で、酒はキリンビールであるといい、当時の正邦にとっての代表作は、『金色夜叉』(監督賀古残夢、1922年)における「富山忠次」役、および『狂へる劔技』(監督牛原虚彦、1921年)における「青年肺病患者」役であるという。 解散後は松竹キネマに復帰した。1926年(大正15年)6月15日に公開された『霧の中の灯』(監督鈴木重吉)が記録に残る最後の出演作である。『日本映画俳優全集・男優編』(同項の執筆田中純一郎、キネマ旬報社)は以降の消息不明、没年不詳とするが、実際には、この後、中国大陸に向けて初代水谷八重子らとともに巡業に出ており、その旅程において胸を病んで、関東州の大連(現在の中華人民共和国遼寧省大連市)の満鉄病院(現在の大連大学付属中山病院)に入院し、1928年(昭和3年)6月1日、同地で死去している。満32歳没。同年、遺族らの手により『故正邦宏追悼録 オレンヂのかほり』が刊行された。
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