名誉のコース
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「クィントゥス・ムキウス・スカエウォラ (紀元前95年の執政官)」の記事における「名誉のコース」の解説
紀元前115年頃、父プブリウスが死去する。父は終身職である神祇官(死去時は最高神祇官)であったが、欠員の出た神祇官の席をスカエウォラが引き継いだ。政治家としての第一歩は、紀元前110年にクァエストル(法務官)に就任したことであった。紀元前106年、スカエウォラは護民官に就任する。友人のクラッススは1年前の紀元前105年に護民官を務めていたが、両者の官職就任年が異なるのはこのときだけであった。スカエウォラが主催する民会で、クラッススは演壇からセルウィリウス法案(強奪に関する裁判権の一部をエクィテス(騎士階級)から元老院に戻す法律)を支持する演説を行った。 次のステップであるアエディリス(按察官)への就任は紀元前104年 または紀元前103年 とされている。同僚はクラッススであり、壮大な競技会を開催したが、このときローマ市民は初めてライオンを見た。紀元前100年、護民官ルキウス・アップレイウス・サトゥルニヌスは元老院から「セナトゥス・コンスルトゥム・ウルティムム」を突きつけられ、結果として反乱を起こすが、サトゥルニヌスと戦った元老院議員の中にスカエウォラもいた。その後、遅くとも紀元前98年にはプラエトル(法務官)に就任したはずである。一部の研究者は、法務官就任年を紀元前101年、紀元前100年、あるいは紀元前99年 としている。 紀元前95年、スカエウォラはクラッススと共に執政官に就任する。両者はリキニウス・ムキウス法を成立させるが、これはローマに居住していた人々の市民権を厳しく調べるものであった。この頃、イタリア内の同盟都市の市民も自身をローマ市民と呼称していた。正当なローマ市民権を持っていることが証明できなかったものは、ローマから追放された。キケロは偽市民が民会に紛れ込んでいたことに関連して、マルクス・アエミリウス・スカウルスが憤激し、両執政官にこのような処置を取らせたと推測している。歴史学者の中には、マリウス派に反対するメテッルス派の指示を受けて、スカエウォラとクラッススが実行したと考えるものもいる。おそらく、このような厳格な法律の成立は、4年後に始まった同盟市戦争の直接的な理由の一つであった。 翌年、スカエウォラとクラッススの間に対立が起こった。クラッススはプロコンスルとしてガリア・キサルピナ属州の総督を務め、いくつかの反乱を鎮定した。勝利は決定的なものではなかったが、元老院は「儀礼的に」凱旋式の実施を許可したが、スカエウォラがこれに反対した。スカエウォラは「同僚に対する配慮ではなく、国家の理念に照らして」、元老院の決定に反対した。このエピソードは、長年の同僚との関係がむしろ複雑であったことを示している。
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