史記における略歴とは? わかりやすく解説

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史記における略歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 08:48 UTC 版)

蘇秦」の記事における「史記における略歴」の解説

以下は『史記蘇秦列伝における事跡である。 洛邑の人。斉に行き張儀と共に鬼谷師事し縦横の術を学んだ数年諸国放浪し困窮して帰郷した所を親族さえも嘲笑され発奮して相手説得する方法作り出した最初に周の慎靚王に近づこうとしたが、蘇秦経歴を知る王の側近らに信用されず、失敗した次に秦に向かい武王進言したが、受け入れられなかった。当時の秦は商鞅死刑になった後で弁舌の士を敬遠していた時期のためである。 その後は燕の昭王進言して趙との同盟成立させ、更に韓・魏・斉の王を説いて回り戦国七雄のうち秦を除いた六国の間に同盟成立させ、六国宰相兼任した。この時、韓の襄王説いた際に、後に故事成語として知られる鶏口となるも牛後となることなかれ」という言辞述べた。 趙に帰った後、粛侯から武安君に封じられ同盟約定書を秦に送った以後、秦は15年渡って東に侵攻しなかった。蘇秦方針は秦以外の国を同盟させ、それによって強国である秦の進出押さえ込もうとするもので、それらの国が南北縦に並んでいることから合従説と呼ばれた合従成立させた蘇秦故郷帰ったが、彼の行列諸侯それぞれ使者出して見送りさながら王者のようであった。これを聞いて周王も道を掃き清め出迎え郊外まで人を出して迎えた故郷親戚たち恐れて顔も上げないであった。彼は「もし自分にわずかの土地でもあれば、今のように宰相の印を持つことができたろうか」と言い親族・友人らに多額金銭分け与えた合従解体後は燕に仕えたが、国内での立場微妙になったために斉に移った。その目的は斉の国力弱め、燕の利益を図ることにあった。斉では湣王取り立てられたが、そのため対立者により暗殺されてしまう。蘇秦は死ぬ直前湣王に対して「私が死んだら私の遺体対し車裂きの刑処し、『蘇秦は燕のために斉で謀反企てた』としてくださいそうすれば私を殺した者が出てくるでしょうと言った湣王蘇秦遺言に従うと、蘇秦殺した者が自首してきたので捕らえて処刑した張儀列伝によると、張儀を秦に送ったのも蘇秦魂胆で、秦による趙への出兵張儀止めさせる狙いがあった。

※この「史記における略歴」の解説は、「蘇秦」の解説の一部です。
「史記における略歴」を含む「蘇秦」の記事については、「蘇秦」の概要を参照ください。

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