史上初の柔道三冠とは? わかりやすく解説

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史上初の柔道三冠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 04:36 UTC 版)

猪熊功」の記事における「史上初の柔道三冠」の解説

東京教育大学(のちの筑波大学)に入学後は、1年先輩で、後に日本一賭けて争う事となる長谷川博之の家に下宿大学同期には竹内善徳らがいた。大学4年次の1959年初め出場した全日本選手権優勝し21歳にして日本一に。学生として、また体重86kgという小躯でのチャンピオン史上であった(後に年齢山下泰裕が、体重岡野功記録更新)。この大会論評宇土虎雄9段は「体力のない者でも技の研究練習積めば体力対抗できる事を証明した」「学生達に希望自信持たせた」と評し、「大きな味のある大会で猪熊優勝は実に愉快であった」と締め括っている。 大学卒業後は順天堂大学助手警視庁柔道講師などを歴任同時に選手生活続け1960,61年全日本選手権準優勝59年から61年3年間は決勝戦全て神永昭夫との顔合わせとなり、共に日本代表する柔道家として名を馳せ“神時代”と呼ばれた1963年大会では、決勝戦大学時代先輩である長谷川博之を得意の一本背負投一閃自身2度目優勝を果たす。 東京オリンピック半年後に控えた1964年全日本選手権では、準決勝戦新鋭坂口征二敗れ3位オリンピックには無差別級ではなく80kg超級当時は最重量級)での出場となる。オリンピックでは、決勝戦体重で30kg以上も上回るカナダダグ・ロジャース優勢勝ちをおさめ金メダル獲得腰椎分離症を克服して世界王座獲得となった。ただし、無差別級神永準優勝終わったため、日本柔道対す批判相次ぐ事となる。 1965年全日本選手権ではリーグ予選古賀武敗れ決勝トーナメント出場逃す同年10月世界選手権では、オリンピック無差別級チャンピオンであるオランダアントン・ヘーシンクとの決着熱望し無差別級エントリーしたが、重量級制したヘーシンク大会途中で引退を表明したため対戦実現しなかった。同大会で猪熊無差別級制し、史上初の柔道三冠を達成するも、程なく「戦う相手がいない」として27歳現役引退

※この「史上初の柔道三冠」の解説は、「猪熊功」の解説の一部です。
「史上初の柔道三冠」を含む「猪熊功」の記事については、「猪熊功」の概要を参照ください。

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