史上初の柔道三冠
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東京教育大学(のちの筑波大学)に入学後は、1年先輩で、後に日本一を賭けて争う事となる長谷川博之の家に下宿。大学の同期には竹内善徳らがいた。大学4年次の1959年、初めて出場した全日本選手権で優勝し、21歳にして日本一に。学生として、また体重86kgという小躯でのチャンピオンは史上初であった(後に年齢は山下泰裕が、体重は岡野功が記録を更新)。この大会の論評で宇土虎雄9段は「体力のない者でも技の研究・練習を積めば体力に対抗できる事を証明した」「学生達に希望と自信を持たせた」と評し、「大きな意味のある大会で、猪熊の優勝は実に愉快であった」と締め括っている。 大学卒業後は順天堂大学助手、警視庁柔道講師などを歴任。同時に選手生活を続け、1960,61年の全日本選手権で準優勝。59年から61年の3年間は決勝戦が全て神永昭夫との顔合わせとなり、共に日本を代表する柔道家として名を馳せ“神猪時代”と呼ばれた。1963年大会では、決勝戦で大学時代の先輩である長谷川博之を得意の一本背負投で一閃、自身2度目の優勝を果たす。 東京オリンピックを半年後に控えた1964年の全日本選手権では、準決勝戦で新鋭の坂口征二に敗れ3位。オリンピックには無差別級ではなく80kg超級(当時は最重量級)での出場となる。オリンピックでは、決勝戦で体重で30kg以上も上回るカナダのダグ・ロジャースに優勢勝ちをおさめ金メダルを獲得。腰椎分離症を克服しての世界王座獲得となった。ただし、無差別級の神永が準優勝に終わったため、日本柔道に対する批判が相次ぐ事となる。 1965年の全日本選手権ではリーグ予選で古賀武に敗れ、決勝トーナメント出場を逃す。同年10月の世界選手権では、オリンピックの無差別級チャンピオンであるオランダのアントン・ヘーシンクとの決着を熱望し無差別級でエントリーしたが、重量級を制したヘーシンクは大会途中で引退を表明したため、対戦は実現しなかった。同大会で猪熊は無差別級を制し、史上初の柔道三冠を達成するも、程なく「戦う相手がいない」として27歳で現役を引退。
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