台湾での戦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 01:41 UTC 版)
台湾出兵に対しては、政府内部やイギリス公使パークスやデロングの後任のアメリカ公使ジョン・ビンガム(John Bingham)などからは反対意見もあった。特に、参議木戸孝允らの長州系は「征韓論を否定しておきながら、台湾への海外派兵をおこなうのは矛盾である」として、4月18日に木戸は参議の辞表を提出して下野してしまった。そのため、政府は一旦は派兵の中止を決定した。 しかし、西郷従道は独断での出兵を強行し、長崎に待機していた征討軍約3,000名を出動させた。 国立公文書館が所蔵している公文書によると1874年4月4日、三条実美により台湾蕃地事務局が設置される。(以後の任命は当時太政大臣であった三条実美からの奉勅となっている)同年4月5日、台湾蕃地事務都督に西郷従道が任命される。同年4月6日、谷干城と赤松則良に台湾蕃地事務局参軍と西郷従道を輔翼し成功を奏する事を任命される。同年4月7日、海軍省から孟春艦、雲揚艦、歩兵第一小隊、海軍砲二門と陸軍省から熊本鎮台所轄歩兵一大隊砲兵一小隊の出兵命令が命じられる、という経緯になっている。 5月6日に台湾南部に上陸すると台湾先住民とのあいだで小競り合いが生じた。5月22日、台湾西南部の社寮港に全軍を集結し、西郷の命令によって本格的な制圧を開始した。6月3日には牡丹社など事件発生地域を制圧して現地の占領を続けた。戦死者は12名であった。しかし、現地軍は劣悪な衛生状態のなか、亜熱帯地域の風土病であるマラリアに罹患するなど被害が広がり、早急な解決が必要となった。マラリアは猖獗をきわめ、561名はそれにより病死した。
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