台湾での晩年とは? わかりやすく解説

台湾での晩年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/19 07:06 UTC 版)

李璜」の記事における「台湾での晩年」の解説

1948年民国38年)、李璜総統府資政となり、さらに青年代理主席となる。1950年民国39年)からは香港移り、しばらくは著作教育活動従事した1951年曽琦死去すると、青年党の最高指導者となる。しかし引き続き香港留まり台湾移った青年党を直接指導しようとはしなかったため、以後党内長く分裂状態となる。1962年民国51年)、珠海学院教授となる。1967年からは渡米して、やはり教師として活動している。 1969年民国58年)春、青年党の重鎮である左舜生要請を受け、ようやく李璜台湾移った同年青年党第12期代表大会では余家、左、陳啓天胡国と共に正式に主席選出され(5人の主席による集団指導体制)、中央党部も成立し青年党は一応の安定を見ることになった1979年民国68年)の党第13期代表大会でと陳の2人主席選出され双頭体制となる。1983年民国72年)の第14期代表大会では、単独主席選ばれた(続く1988年民国77年)の第15回代表大会でも同様)1984年民国73年9月蒋経国から招聘され総統府資政に就任した1990年民国79年)には、李登輝から国家統一委員会委員任命されている。 1991年民国80年11月15日台北市にて死去享年97著書に『フランス文学史』、『国家主義教育』、『欧州古代文化史原文欧州遠古文化史」)』、『フランス漢学論集』などがある。

※この「台湾での晩年」の解説は、「李璜」の解説の一部です。
「台湾での晩年」を含む「李璜」の記事については、「李璜」の概要を参照ください。

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