古文復興運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/02 20:08 UTC 版)
魏・晋以来、文の主流として使われてきた駢儷文は、対句や典故を多用し、事実や論理よりも修辞の技巧や言葉の華麗さなどを追求したため、言語的遊技にすぎない空疎な文章が作られることが多かった。このことを古くは北周の蘇綽、唐では陳子昂を始めとして蕭穎之・独孤及・梁粛などが批判をしている。中唐になり、安史の乱で当時の貴族制を基本とした社会制度が大きく崩壊し、科挙出身の官僚勢力が力をつけるようになってくると、貴族主義的な駢儷文に代わり、自分たちの思想や主張を表現できる新しい文体が模索されるようになった。韓愈はこのような状況のなかで新しい文体の根拠を古代の文献に求め、「古文」と名付けた。この運動は、孔子や孟子の道統を尊ぶ、儒教復興の動きと連動しており、古文を使って表されるものは道であった。韓愈の古文運動は幾人かの賛同者を得、そのうち優れた作品を残したものに柳宗元がいる。 古文運動は唐の滅亡とともに一旦、下火となった。宋が興っても初期は制度的にも文化的にも唐制を規範として従ったため、依然として駢儷文が主流であった。宋が興って100年がたち、治世が安定した仁宗期になると、再び古文復興運動が盛り上がりを見せるようになる。その代表人物が欧陽脩であった。彼が科挙の試験官となったとき、古文で答案を書いた蘇軾・蘇轍・曾鞏といった人々を合格させたことにより、以後、古文が散文の主流となることが決定的となった。 唐宋の古文運動の担い手で優れた作品を残した八人を唐宋八大家と呼ぶ。 ここで言う運動とは、理論的根拠が存在すること。そして、その理論に基づく作品が存在すること。さらに、複数の賛同者がいたということである。
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