参戦チームとドライバー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/29 03:29 UTC 版)
「1972年アルゼンチングランプリ」の記事における「参戦チームとドライバー」の解説
前年のコンストラクターズランキング順に記載する。 前年のチャンピオンであるティレルは、前年度王者のジャッキー・スチュワートとフランソワ・セベールのまま変わらず。マシンもスチュワートが003、セベールが002で継続。 BRMは前年にペドロ・ロドリゲスとジョー・シフェールを相次いで失ったが、新たなタイトルスポンサーとしてマールボロが付き、前年から残留するピーター・ゲシン、ハウデン・ガンレイ、ヘルムート・マルコに加え、マトラから移籍したジャン=ピエール・ベルトワーズが新たなエースとなり、ロータスからレイネ・ウィセルが移籍し、アレックス・ソラー=ロイグ(英語版)が最後のシートを手に入れ、常時3-5台の大量エントリーを敢行する。ただし、ベルトワーズは前年のブエノスアイレス1000kmレース(英語版)の事故によりアルゼンチンの司法省による訴追の脅威に曝されていたため、大西洋を渡らず欠場した。マシンは前年の改変型P160Bを主に使用する。 フェラーリは312B2の弱点だったリアサスペンションに改良を施した。ドライバーはジャッキー・イクスとクレイ・レガツォーニのまま変更なく、マリオ・アンドレッティも引き続きアメリカでのスケジュールの都合が付く場合に限り参戦する。 マーチはロニー・ピーターソンが残留し、ニキ・ラウダが加入した。マシンは前年の成功作711の改良型721を投入した。 ロータスは前年までのゴールドリーフから同じインペリアル・タバコのブランドである「ジョン・プレイヤー・スペシャル(JPS)」にタイトルスポンサーを変更したことに伴い、主力マシン72Dのカラーリングもブラックとゴールドに変わった。ドライバーはエマーソン・フィッティパルディが残留し、イギリスF3チャンピオンのデビッド・ウォーカー(英語版)が加入した。 前年までBRMのタイトルスポンサーであったヤードレーはこの年からマクラーレンのタイトルスポンサーとなり、主力マシンのM19Aのカラーリングはオレンジからホワイトに変更された。ドライバーはデニス・ハルムが残留し、ピーター・レブソンが加わった。レブソンもアンドレッティ同様、アメリカでのレースと重なる場合は欠場する。 マトラはクリス・エイモンのみの1台体制に縮小し、マシンは改良型のMS120Cを使用する。 サーティースはオーナーのジョン・サーティースがチーム運営やマシン開発に集中することになり、ドライバーラインナップもマイク・ヘイルウッド、ティム・シェンケン、アンドレア・デ・アダミッチと一新された。ただし、ヘイルウッドは本レースを欠場する。マシンは前年のアメリカGPで先行投入されたTS9Bを使用する。 ブラバムはジャック・ブラバムに1年遅れてロン・トーラナック(英語版)も手を引き、バーニー・エクレストンがチームを掌握して体制が一新された。ベテランのグラハム・ヒルは残留したがNo.2に格下げとなりBT33をドライブし、新たなNo.1ドライバーとして新人カルロス・ロイテマンを迎え、前年にヒルが走らせたBT34を与えた。 ウィリアムズはイタリアの玩具メーカー「ポリトイ」の支援を得て、ブラバムを去ったトーラナックにオリジナルF1マシンの制作を依頼した。しかし、開幕までに新車は完成せず、前年に引き続きマーチから721を購入することになった。ドライバーはアンリ・ペスカロロが残留した。
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参戦チームとドライバー
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「1973年アルゼンチングランプリ」の記事における「参戦チームとドライバー」の解説
前年のコンストラクターズランキング順に記載する。安全性向上のため、第4戦スペインGPから燃料タンクの容量を250L以内とし、各車ボディの両サイドに衝撃吸収用のディフォーマブル・ストラクチャーを装備することが義務付けられる車両規定が実効されることにより、開幕の時点では多くのチームが新車の投入を見送り、前年型を使用した。 前年のチャンピオンであるロータスは、前年度王者のエマーソン・フィッティパルディに加え、マーチからロニー・ピーターソンが移籍した。 ティレルはジャッキー・スチュワートとフランソワ・セベール、マクラーレンもデニス・ハルムとピーター・レブソンのまま変わらず。 フェラーリは財政的な問題から、エースのジャッキー・イクスは残留したものの、クレイ・レガツォーニをBRMに放出せざるを得なかった。マリオ・アンドレッティはこの年、アメリカのレースに専念した。イクスのチームメイトには前年にスポット参戦したアルトゥーロ・メルツァリオが起用された。開発責任者のマウロ・フォルギエリは新車312B3のプロトタイプが最初のテストで大きな欠陥を露呈したことにより、一時的にF1チームから外された。 サーティースはマイク・ヘイルウッドが残留し、カルロス・パーチェがウィリアムズから移籍した。マシンは前年終盤に登場したTS14の改変版TS14Aを主に使用する。 マーチは活動の中心をF2に移し、F1は新人ジャン=ピエール・ジャリエの1台体制に縮小した。マイク・ボイトラーは個人所有の721Gを引き続き使用する。 BRMはジャン=ピエール・ベルトワーズが残留し、高額な契約金によりフェラーリからレガツォーニを招き入れ、マーチからニキ・ラウダが加わり、常時3台体制とした。主力マシンのP160を設計したトニー・サウスゲートがシャドウに去ったため、マイク・ピルビーム(英語版)が改良作業を引き継いだ。 ブラバムはベテランのグラハム・ヒルが去り、カルロス・ロイテマンとウィルソン・フィッティパルディが残留した。この年、ゴードン・マレーがチーフデザイナーに昇格した。 ウィリアムズは前年のイギリスGPで初登場したオリジナルマシンのFX3を改変したFX3Bで臨む。前年はコンストラクター名をスポンサーの「ポリトイ」としていたが、そのポリトイが手を引き、新たにイソとマールボロがスポンサーとなったことにより「イソ・マールボロ」と改められた。ドライバーはBRMからハウデン・ガンレイ、テクノからナンニ・ギャリが移籍してきた。 この年から参戦を開始するシャドウは次戦ブラジルGP、エンサインはスペインGPのデビューを予定していた。前年から参戦を開始したテクノは参戦計画が不透明だったが、クリス・エイモンの起用が決まった。
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