南満州鉄道時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/28 20:26 UTC 版)
日露戦争後の1905年(明治38年)12月、日本がロシアの満州権益を継承するために清との間に結んだ満州善後条約において、安奉線の経営は引き続き日本が行うこととなった。しかし、条約締結前の交渉では安奉線の租借期間について日本と清が対立し、交渉の結果日本による租借は撤兵期間1年間、安奉線を軍用鉄道から商業鉄道に転換するための工事期間2年間、工事後の租借期間15年間の計18年間とされた。 1907年(明治40年)4月1日、南満州鉄道(以下、満鉄)の営業開始と共に安奉線は満鉄に組み込まれた。満鉄に対して政府からは営業開始後3年以内に安奉線を含む満鉄の全鉄道路線を標準軌に改軌することが求められていたものの、改軌工事の開始は遅れ、1909年(明治42年)3月になってようやく初めての日清間の協議が開かれた。しかし、改軌と同時に行う陳相-奉天間の路線変更(当時の安奉線は陳相から撫安を経由し直接奉天に至っていたが、満鉄は蘇家屯で満鉄本線に接続することを主張していた)について清側が反対意見を示したため、改軌工事を開始することができなかった。清側の態度の硬化により日清間の交渉は行き詰まるが、日本側は8月に入って清の了承を得ずに改軌工事を強行することを決定し、最終的には8月19日に日清間で覚書が成立することで清の同意を得て改軌工事は進められた。改軌工事は1911年(明治44年)11月に全線で完了している。日清間で問題となった陳相-奉天間の経路については当初、撫順線の一部を利用し、渾河で満鉄本線に接続する仮設線が敷設されたが、1914年(大正3年)1月には撫順線を経由して蘇家屯で満鉄本線に接続する形に改められ、さらに1918年(大正7年)12月には満鉄案に沿った呉家屯を経て蘇家屯に至る路線が完成して現在の形となった。1911年11月の改軌完成と同時に、鴨緑江を渡って安東と朝鮮の新義州を結ぶ鴨緑江鉄橋が開通し、安奉線は安東では朝鮮の京義線と、奉天では満鉄本線と接続して朝鮮と満州を直結する重要路線となって日本の大陸への足がかりとして大きな役割を果たすこととなった。1930年代および1940年代には釜山から朝鮮総督府鉄道、満鉄を経由して新京や北京に至る国際列車が複数運行され、安奉線は日本本土から釜山を経て満州や北京、さらにはシベリア鉄道を利用してヨーロッパにまで至る国際連絡運輸の一部を担っていた。1944年(昭和19年)9月には戦時下における輸送量の増加により全線複線化されている。
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