南極大陸横断を夢見て〈冬期エベレスト・南極〉
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「植村直己」の記事における「南極大陸横断を夢見て〈冬期エベレスト・南極〉」の解説
同1979年6月6日、中国政府に招待されて、チベットのラサに入った。 同年8月、アメリカ国立科学財団から、「植村の南極での計画にアメリカ合衆国は協力できない」との最終回答があった。 同年12月、ネパールのカラタパール(標高5,400m)に入り、約1か月間、冬期エベレストを偵察した。 1980年、エベレストの冬期登頂を構想するが、単独での登頂は困難と考え、明治大学山岳部OBを主力とした「日本冬期エベレスト隊」を編成し、植村が隊長となった。 同年2月18日、エベレスト冬期初登頂にポーランド隊が成功し、植村は先を越された。 同年4月下旬から約3週間、冬期エベレスト山行の準備のため、ネパールに滞在した。 冬期エベレストのトレーニングとして、冬期のアコンカグア(南アメリカ最高峰)に挑戦するため、同年7月11日、日本を発った。8月5日、ベースキャンプに入り、8月13日、松田研一、阿久津悦夫と共に、第2登に成功した。しかし、計画していた頂上でのビバーク訓練は断念した。植村、39歳。 同年10月30日、エベレスト冬期登頂を目指して、日本を出発した。ポーランド隊に先に冬期登頂されたことにより、植村の隊は登攀以外に学術的な性格も併せ持つこととなった(登攀隊員6人、学術5人、報道6人)。12月1日、ベースキャンプから登攀を開始した。しかし、翌1981年1月12日、標高7,100m地点で登攀隊員の竹中昇が死亡し、また悪天候に阻まれ、同年1月27日、登頂を断念した。同年2月14日、帰国した。植村、40歳。 同1981年、南極大陸3,000km犬ぞり単独行と南極大陸最高峰のビンソン・マシフ単独登頂の計画について、アルゼンチン軍の協力が得られることとなった。ただし、3,000km犬ぞり単独行については、アメリカの協力が得られないため南極大陸横断は不可能となったことから、ビンソン・マシフまでの往復での3,000kmとなった。 同年12月、テレビと雑誌の取材のため、アルゼンチンを訪問し、南極のマランビ基地に7日間滞在した。 1982年1月24日、南極3,000km犬ぞり単独行とビンソン・マシフ単独登頂に挑戦するため、日本を出発した。同年2月10日、アルゼンチン最南端の港であるウシュアイアから砕氷船「イリサール」で出港し、2月13日、南極半島にある同軍のサンマルチン基地に到着した。同基地で待機し出発を待つが、3月19日にフォークランド紛争が勃発し、同年12月22日、軍が協力を撤回したため断念した。1983年3月16日、約1年間の南極生活を終えて帰国した。植村、42歳。
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