南アフリカ連邦の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 19:44 UTC 版)
「南アフリカ共和国の歴史」の記事における「南アフリカ連邦の成立」の解説
ボーア戦争終結後、イギリスはミルナー総督のもとボーア人共和国を強権統治のもとにおいたものの、ボーア戦争時に英国国内で高まった非難の声によってチェンバレンは辞職を余儀なくされ、政権が交代し、新政権は旧2共和国において議会設立と選挙の実施を認めた。この1907年2月20日の選挙ではイギリスに有利な選挙法が導入されたものの、鉱山王の率いる親英派は選挙で大敗。ボーア人は選挙で団結し、オレンジ川植民地の指導者であるジェームズ・バリー・ミューニック・ヘルツォーク率いるオランヒア・イニ(オレンジ同盟)や、トランスヴァールのルイス・ボータとヤン・スマッツ率いるヘット・フォルク(国民)に投票し、さらに英国系の親ボーア政党が労働者の支援を得たため、旧ボーア人共和国においてボーア派は圧倒的多数の支持を得て政権を握った。さらに1908年2月のケープ植民地の選挙においても親ボーア派が政権を握った。 ここでトランスヴァールの指導者の地位に就いたボータとスマッツが、南アフリカ4植民地の合同を提唱した。内陸にあるトランスヴァールはもともと海港の獲得が悲願であり、ナタールやケープとの連合により経済が成長すると考えられた。これに、アフリカーナーの地位向上を目指すオレンジ、ズールーによる暴動で治安維持に不安を抱えたナタール、ローズ以降各植民地の統一を目指していたケープがそれぞれ賛同し、1908年にダーバンで憲法制定準備会議が開かれた。この会議の結果、新国家の国制は、国会議員は白人男性だけに限定され、二院制であるが下院の力が強く、単純過半数のみで憲法が改正できるため司法が立法を掣肘する余地はほとんどないものとなった。また、新連邦では英語とオランダ語が同格の言語となり、旧共和国側の主張が認められる形となった。
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