北朝鮮第1軍団の攻撃
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「釜山橋頭堡の戦い」の記事における「北朝鮮第1軍団の攻撃」の解説
詳細は「洛東江攻防戦(英語版)」および「洛東江突出部の戦い(英語版)」を参照 8月31日午後11時30分、南部正面で北朝鮮第1軍団が攻撃を開始。アメリカ第2歩兵師団が守備していた霊山正面では幅10キロメートル、深さ13キロメートルを突破され、霊山と昌寧の間が分断された。アメリカ第25歩兵師団の馬山正面では北朝鮮第6師団が幅5キロメートル、深さ4キロメートルを突破、中央のアメリカ第24連隊は壊乱した。 予備隊を持たないキーン少将は8月31日夜に多富洞から馬山に移動してきていた第27連隊の投入を要求した。しかしT-34を43輌ともなった北朝鮮第9師団が洛東江突出部を突破し霊山に迫っていたため、ウォーカーはより危険であると判断した霊山に軍の反撃正面を定めた。第25歩兵師団も崩壊の瀬戸際にあったが、第27連隊の投入はウォーカー中将に拒まれた。 ウォーカー中将は霊山への海兵隊の投入を決意。マッカーサー将軍の承認を待たずに、仁川上陸作戦で第一陣をつとめることが決まっていた第5海兵連隊を移動させた。キーン少将も第25歩兵師団が崩壊の危機に至ると、事後承認で第27連隊を反撃に用い、主抵抗線の一部を奪回した。 ウォーカー中将が第5海兵連隊を霊山の戦線に投入したことに仁川上陸作戦の準備をしていた第1海兵師団オリバー・ P・スミス少将(en)が強く反発し、第24歩兵師団と交替することが決定したが、前線が崩壊することを恐れたウォーカー中将が強く懇願し、9月5日の夜まで海兵隊を使うことが出来るようになった。 9月5日は朝鮮戦争でアメリカ軍がもっとも大きな損害を受けた日で、戦死・戦傷・行方不明がアメリカ陸軍と海兵隊の合計で1,245名発生した。海兵隊の3日間にわたる逆襲で、5日には霊山正面の戦線の状況は好転して、6日からは第9連隊が陣地を引き継いだ。第5海兵連隊は仁川上陸作戦のために釜山に向かった。 その後もアメリカ第23連隊が守る昌寧では北朝鮮第2師団により激しい攻撃が行われたが、9月9日で下火になった。
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