創業~1930年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 01:00 UTC 版)
「吉田牧場 (北海道)」の記事における「創業~1930年代」の解説
1897年、吉田権太郎が勇払郡安平村(当時)に創業。軽種馬生産者として日本で最も歴史ある牧場の一つに数えられる。創業からしばらくは道楽に近い形で軍馬の生産を行っていたが、札幌競馬倶楽部の調教師・稗田虎伊の知遇を得て、1920年代からサラブレッド生産にも着手したとされる。 「理想的地域を占め、地積四百余町歩、その施設と管理方法は実に模範的で、私設競馬場まであり、官庁の経営といえども或は及ばぬであろう(中略)馬産地胆振に同牧場のあるは意を強くするに足ると思う」(北海タイムス、1924年11月15日付)と言われた大牧場であった。なお、権太郎が稗田と知り合った経緯について、「セリ市で出会った」としている資料もあるが、日本中央競馬会の広報誌『優駿』1977年7月号に以下のような話が掲載されている(要約)。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}権太郎が札幌の宿の帳場で新聞を読んでいると、大阪への長距離電話を掛けている男がいた。漏れ聞く内容から察するに馬の売買の話であったが、優良軍馬が300-400円という時代に、男は1万円、1万2000円という途方もない金額を口にしていた。男が話を終えた後、権太郎は馬生産者と名乗った上でその内容を尋ねると、男は札幌競馬場で調教師をしている稗田虎伊と名乗り、馬主とサラブレッド競走馬の取引について話をしていたのだと語った。サラブレッドという品種を知らなかった権太郎に対し、稗田は「世界で最も優秀な馬」だと力説し、もしも生産する意志があるなら馬を斡旋すると申し出た。これを聞いた権太郎は「どうせ馬を作るなら最高のものを」と決意、のちに追風(父パーナムビュコー、母レスリーカーター)、第二フェアペギー(同インタグリオー、フェアペギー)、プレヴァンス(同コイワヰ、第二プロポンチス)という牝馬3頭が持ち込まれ、吉田牧場のサラブレッド生産が始まった。 ただし、上記と齟齬する話として、安平村から改組された早来町が発行した『顕彰誌』に、権太郎は「牧場の開設以来馬匹の蕃殖育成を終生の事業とし、主としてサラブレツト種を飼育し」とあり、また1908年に農商務省および畜産組合より濠州産牝馬の払い下げを受け、大正初期には「内国産洋種」の種牡馬2頭を繋養し、共進会でも内国産洋種馬の「大正」が壱等賞金牌を受けたとある。
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