刷新の内容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 09:51 UTC 版)
瑞賢は従来の商人請負による江戸廻米を改め、積船を幕府の直雇とし、北国海運で活躍していた北国船ではなく江戸への航路に慣れた塩飽船など東瀬戸内海の船と船頭を選んだ。また従来、最上川を下った御城米はいったん酒田の商人の町蔵に保管され日和をみて廻米船に積み込まれる方式であったが、御城米専用の野積の米蔵を建て、輸送も上流船の独占を止め下流船も活用、請負人の負担であった川舟運賃を幕府の負担とし低運賃に改めるなど、経費の削減を図った。御城米の輸送体系から商人資本の町蔵、町船などを排しての官営輸送であり、農民の負担増を招いた改革でもある。 積載船は、幕府直雇の御城米廻漕専用とし、大阪で徴用された後空船で積出港に向かった。廻漕船は御用船であることを示す朱の丸の「官幟」を掲げ、入出港においての優先権と入港税の免除などの優遇策が取られ、沿線の諸侯にも御城米船の保護を命じた。また代官に命じて寄港地に立務場を置き、御城米船の保護に当らせるとともに積載量を厳密に検査させた。官米の廻漕は利益も少なく、利鞘を稼ぐため超過して荷を積むことも少なくなかったからである。そのかわり、寄港地での乗組員用の食料米は余分に買い込ませた。江戸への航海日数が少ないほど食料米は余ることとなり、その売買益は乗組員の取り分とした。しかし不測の事態により積荷を減ずる必要が生じた場合は必ず食料米から海に投棄するよう命じた。トラブルを避け船を速やかに運航させるため船中での賭博を禁じた。 岩礁が多く危険な下関港には水先案内船を備え、鳥羽港口の菅島では、毎夜烽火を挙げ廻漕船の目標とするなど航路の安全確保に努め、積出港の酒田と寄港地および江戸には手代を置き管理にあたらせ、輸送体系の刷新を図った。 寄港地 (酒田) ⇒ 佐渡の小木 ⇒ 能登の福浦 ⇒ 但馬の柴山 ⇒ 石見の温泉津 ⇒ 長門の下関 ⇒ 摂津の大坂 ⇒ 紀伊の大島 ⇒ 伊勢の方座 ⇒ 志摩の畦乗 ⇒ 伊豆の下田 ⇒ (江戸)
※この「刷新の内容」の解説は、「西廻海運」の解説の一部です。
「刷新の内容」を含む「西廻海運」の記事については、「西廻海運」の概要を参照ください。
- 刷新の内容のページへのリンク