制度前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 01:10 UTC 版)
「大名証人制度」も参照 鎌倉時代には御家人が鎌倉に参勤する制度があり、三年に一度の参勤が行われていた。また、和田・畠山・三浦・佐々木などの旧功譜代の家は鎌倉に定住し、時おり、領地に戻るという生活を送った。室町時代には、細川・畠山などは在京し、その他の大名は京都に参勤した。戦国時代を経て、一部の戦国大名は服属した武士を城下に集めるようになり、織田信長は安土城で支配下に服した大名に屋敷を与えた。その後、豊臣秀吉が大坂城・聚楽第・伏見城で屋敷に妻子をも住まわせたことから全国的な参勤制度の原形ができあがった。 慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利して覇権を確立すると、諸大名は徳川氏の歓心を買うため江戸に参勤するようになった。家康は秀吉の例に倣って江戸城下に屋敷を与えた。大名は忠誠を示すため、妻(正室)と子(男子であれば跡継ぎ)、有力家臣の子弟を人質として江戸に住まわせるようになった。寛永11年(1635年)8月に幕府は、譜代大名で妻子を領地に置いている者に、江戸に移させるよう命じている。 当初、参勤自体は自発的なものであったが次第に制度として定着していった。元和3年(1617年)以降には東国と西国の大名がほぼ隔年で参勤している状態となっていた。 寛永12年(1635年)三代将軍徳川家光の時代に『武家諸法度』が改定され(寛永令)、第二条で「大名小名在江戸交替相定也、毎歳夏四月中可参勤」と規定されたことによって、制度としての参勤交代が明文化された。
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