判型の発端
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 06:05 UTC 版)
日本の文庫本のはじまりはドイツのレクラム文庫(1867年創刊)に範をとった1927年創刊の岩波文庫であるという@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}記述をよく見かけるが[要出典]、文庫本を「古典名作の小型廉価普及版」とするなら1903年創刊の袖珍名著文庫(冨山房)が嚆矢である。なぜならこの文庫もまたドイツのレクラム文庫あるいはカッセル文庫に刺激されて生まれたものであり、豪華本帝國文庫に対し廉価版によって名作の普及を目指したものだったからである。また袖珍という判形も現在の文庫とほぼ同じものであった。「袖珍」とは袖に入るくらいに小型なものの意で、A6判やB7判以下の携帯に便利な小型の本はそれまで袖珍本や馬上本と総称されていた。一方、時代的には先行する民友社刊行の国民叢書も同じ判型であるが、こちらは、書き下ろしの新作や海外著作の翻訳を収録した時事的な性格をもつものであった。明治末期の1910年には三教書院の「袖珍文庫」が創刊し、古典から俗文学まで60冊程度が刊行され、表紙に施されたいちょうの葉の模様から「いちょう本」と通称されるほど人気を集めた。これに続き、講談話などを集めた1911年創刊の立川文庫(立川文明堂)が非常な人気を呼び、その亜流もいろいろと生まれ、後世の大衆文学に大きな影響を及ぼした[要検証 – ノート]。立川文庫の3年後の大正3年(1914年)に新潮文庫が創刊され、現在まで続く「文庫本」としてはもっとも古い。
※この「判型の発端」の解説は、「文庫本」の解説の一部です。
「判型の発端」を含む「文庫本」の記事については、「文庫本」の概要を参照ください。
- 判型の発端のページへのリンク