判官びいき説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:18 UTC 版)
「義経=ジンギスカン説」の記事における「判官びいき説」の解説
治承・寿永の乱は、源平合戦であると同時に王朝国家に対する武士の組織立った抵抗ないし自立化を熱望するという側面を産み、この抵抗を通じて東国政権である鎌倉幕府を成立させるに至った。その組織の頂点にあったのが征夷大将軍となった源頼朝であり、梶原景時はその良き補佐役、そして義経に付された軍監であったが、義経は頼朝の名代であり、武士でありながら、頼朝の軍律に違反し、武士の抵抗の相手で有るはずの王朝国家から官位を許可無く任じられるなどをして、頼朝から怒りを買い殺されてしまう。義経を英雄としてみていた庶民は、頼朝を権力者、景時を讒言者、義経を悲劇の英雄と見立てた。このような見立ての上に、反権力という立場からの共感、中傷・讒言者への憎しみ、冷酷な兄に対する健気な弟に対する同情、あるいは「滅びの美学」とも呼ぶべき独特の美意識が加わって、「判官びいき」が生まれた。王朝国家の側に立つ畿内の文化人の多くが義経びいきだったことも、こうした風潮を後押ししたものと考えられる。
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