判官贔屓と源頼朝・梶原景時
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 03:06 UTC 版)
「判官贔屓」の記事における「判官贔屓と源頼朝・梶原景時」の解説
歴史学者の上横手雅敬は、「義経がいじめられた」ことこそ判官贔屓成立の根源であり、具体的には、義経の専横ぶりを訴えた梶原景時や、義経追討の命を下した源頼朝という悪玉を「不可欠の前提」としているのだと述べている。 上横手は、『吾妻鏡』が鎌倉幕府によって編纂された史書であるにもかかわらず、頼朝や梶原の厳しさや冷酷さ、悪辣さを最も強烈に描き、一方で義経に対し同情的な記述すら置いていると指摘した上で、『吾妻鏡』が北条氏の立場を正当化する史書である以上、北条氏によって破滅へと追い込まれた梶原が悪辣な人物として描かれるのは当然のことであるが、それに対応する形で判官贔屓が成立し、義経を人気者・善玉とすると同時に北条氏陣営に引き込む結果となっていることは注目に値することであり、判官贔屓が「北条氏によって、直接であれ、間接であれ、操作されているのだとすれば、その歴史的意識もまた洗い直されなければならないだろう」と述べている。これについて歴史学者の奥富敬之は、「よくない政治をとる源氏将軍にかわって、世のため人のため、政務をとるようにした」のが北条氏であるという解釈を『吾妻鏡』はとっているが、創設者であり鎌倉武士の尊敬を集めていた頼朝についてはさすがに直接的に批判することが躊躇されたため、「梶原景時を讒者とし、その景時を重用して義経を死に追いやったとして、読者が頼朝を批判することになるように」という「きわめて高度なテクニック」を用いたのだと指摘している。奥富によると、『吾妻鏡』は頼朝を批判するために意図的に判官贔屓を作り出した。 なお、景時の「讒言」は頼朝によって義経のもとへ奉行として派遣されていた以上当然の行動であり、また義経が頼朝の命令を守らず自分勝手に振る舞うことを快く思わず警戒した武士は景時に限らず、頼朝は体制の倫理を代表して義経の非法性を決定したのであって、頼朝が狭量であったがゆえに義経を疎んじたと断じるのは適切ではないとする見解もある。
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