初演当時の状況
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1865年のオペラ座からの依頼は、1867年にパリ開催が決定していた万国博覧会にあわせて上演するためのグランド・オペラであった。オペラ座の運営方法などに不満をもっていたヴェルディは最初申し出を断わったが、オペラ座総監督エミール・ペラン(1864年総監督就任)はヴェルディに様々な題材を辛抱強く提供して作曲を打診、結局ヴェルディはペランが候補に挙げていたひとつ『ドン・カルロス』の作曲に同意、1866年6月までの完成という条件で契約に応じた。 ヴェルディは既に1847年に『イェルサレム』( Jérusalem『十字軍のロンバルディア人』の改訂版)、1855年に『シチリア島の夕べの祈り』をそれぞれオペラ座の依頼によって作曲していたが、いずれの作品も決定的な成功には至っておらず、パリでの決定的な成功を望んだヴェルディの思いも、この契約には関わっていたと思われる。 台本はベテラン作家フランソワ・ジョセフ・メリが手がけることに決まったが、メリは着手直後に病死してしまい、メリの秘書で、義理の息子でもあったカミーユ・デュ・ロクル( Camille du Locle、1832年-1903年)が後を引き継いで台本を完成させた。台本完成後、ヴェルディは自宅で作曲に励んだが、喉の病気の悪化などで完成が遅れて契約での期限に間に合わず、結局全曲の完成は1866年12月であった。その後、初演に先立って、通し上演時間が約4時間に及ぶことがわかり、長すぎるということで結局ヴェルディは約20分の音楽をカットしている。 これらの出来事を経て『ドン・カルロス』は1867年3月11日、フランス皇帝ナポレオン3世夫妻を迎え、オペラ座にて初演を迎えたのだったが、ウジェニー皇后(スペイン出身、熱心なカトリック信者と伝えられる)が内容に不快感を示して途中で席を立ってしまったこともあり、初演は失敗に終わってしまい、この作品でもヴェルディがパリでの決定的成功を得ることはかなわなかった。ヴェルディがこの歌劇の作曲者として評価されるのは、3か月後のロンドン上演の成功まで待たねばならなかった。
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