初期の工事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/25 03:45 UTC 版)
1938年(昭和13年)11月16日に疋田側から深坂トンネルに着工し、続いて1939年(昭和14年)2月14日に沓掛側からも着手した。 沓掛口は、本坑の導坑を掘削して122メートル付近までは順調に進んだものの、そこで湧水が多くなってきたため、水抜坑の掘削を開始した。坑口から110メートルの地点で右側に40度で分岐し、本坑から20メートル水平に離れた地点から、本坑と平行な3分の1勾配の斜坑を12.5メートル下まで掘削し、そこからは2パーミルの上り勾配で掘削していった。斜坑の底部にポンプを設けて湧水を排水し、ところどころで水抜坑と本坑を連絡する斜坑を設けることで、水抜坑側から水を排水して本坑の掘削を進めた。本坑は水抜坑に約2か月遅れて掘進した。坑口から1,100メートル付近で断層に遭遇して本坑の掘削が中止されたが、水抜坑側から回り込んで反対側からも掘削することで突破した。また水抜坑掘削時に湧水に悩まされた区間も、本坑掘削までに十分排水されていたために施工が容易となった。こうして約1,300メートルに及ぶ水抜坑の掘削は功を奏した。 疋田口は導坑の掘削を開始し約200メートルを掘った時点で断層粘土帯に遭遇し、数回の土砂流出を起こしたのち大崩壊となった。この部分の突破に相当の時間を要することは確実であったため、工事計画を変更し本坑口の南約700メートルの追分集落付近から別途先進導坑を掘削することにした。この先進導坑は、本坑付近に取り付いたのち本坑に平行して先進することで、地質の調査や斜坑を通じた連絡で本坑の換気に役立てる構想であったが、掘削中に崩壊と土圧によって導坑が押し潰されたことがあり、その間に本坑の工事が進捗してきたために先進導坑を断念した。 疋田口本坑は、断層で崩壊などの問題が生じる地点に迂回坑、試掘坑、水抜坑などを設けて突破していった。坑口から1キロメートル付近、1.5キロメートル付近、2キロメートル付近に大きな断層があり、特に2キロメートル付近のものは大断層であった。この断層帯は、迂回坑によって水を良く抜いて突破し、1943年(昭和18年)3月に疋田側から2,932メートル地点において貫通した。その後切り広げと覆工をおこなっていたが、戦局の急迫に伴い1944年(昭和19年)11月に工事が中止となった。わずかな要員が現場に残存してトンネルの保守作業を行った。
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