初期の平和
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 10:43 UTC 版)
「ユースフ1世 (ナスル朝)」の記事における「初期の平和」の解説
ジブラルタルの包囲戦後にムハンマド4世が確保した和平は、当時の原則ではその死によって効力が消滅したため、ユースフ1世の代表者がアルフォンソ11世とアブル=ハサン・アリーの代表者との会合の機会を設けた。そして三者は1334年2月26日にマリーン朝の首都のフェズで4年間の期限を設けた新しい条約に調印した。前回の条約と同様に新しい条約では三国間の自由な貿易が認められていたが、異例なことにナスル朝からカスティーリャへの貢納金の支払いは条約の内容に含まれていなかった。マリーン朝の船舶はカスティーリャの港に出入りできるようになり、スルターンのアブル=ハサン・アリーはイベリア半島の守備隊を増強しないことに同意したが、部隊を交代させることは依然として可能であった。マリーン朝がイベリア半島の守備隊を増強しないという条項は、カスティーリャだけではなく、自国より大きな国であるマリーン朝がイベリア半島へ進出してくる可能性を警戒していたナスル朝にとっても好都合なものであった。さらに、アラゴン王アルフォンス4世(在位:1327年 - 1336年)が1334年5月にこの条約への加盟に同意し、1335年6月3日にはユースフ1世との間で協定を結んだ。1336年1月にアルフォンス4世が死去すると、息子のペーラ4世(在位:1336年 - 1387年)はナスル朝とアラゴンの二国間条約を5年間更新し、ナスル朝とすべての周辺諸国の間に平和な時期が訪れた。 これらの条約が締結されたことで、条約に加わった国の君主たちは関心を別のところへ向けた。カスティーリャのアルフォンソ11世は反抗的な貴族たちに対する厳しい措置に乗り出し、一方でマリーン朝のアブル=ハサン・アリーは北アフリカのトレムセンを首都とするザイヤーン朝と戦争を繰り広げた。これらの出来事が起きている数年間にユースフ1世はムハンマド4世暗殺の首謀者であるアビー・アル=ウラーの一族に対する行動を起こした。1340年9月(もしくは1338年)にアブー・サービト・ブン・ウスマーンはアル=グザート・アル=ムジャーヒディーンの総司令官の地位を解任され、ラッフ家のヤフヤー・ブン・ウマルが後任となった。アブー・サービトは3人の兄弟とその一族全員とともにチュニスを首都とするハフス朝へ追放された。ハーヴェイは、「当時の報復行為の基準から考えると… これはかなり控えめな措置だった」と述べ、この措置はユースフ1世が北アフリカ出身の志願兵たちと不必要な緊張関係を作りたくなかったためであろうと推測している。
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