初期の兵学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 15:03 UTC 版)
日本において兵学という言葉がいつから用いられるようになったかについては明らかではないが、その本格的な研究は近世以降に徳川幕府の下で行われるようになった。 関ヶ原の戦いの前後よりそれまで家伝の秘書とされてきた『孫子』などの『武経七書』が木版刊行(伏見版)され、戦国時代の戦史研究と合わせて多くの学者がこれまでの兵法に注解を行い、儒学、易学、医学などと並ぶ主要な学問と確立した。その軍事思想の違いから流派が生じ、甲州流、北条流、山鹿流、越後流、楠木流などが現れ、また明の研究である『陣法・操練』に西洋の火術を取り入れた長沼流なども生まれた。 江戸時代に兵学が活発になったのは、日本において戦争がほぼ消滅したからである。実戦の機会が無くなっても、有事に備えて戦争の技術を継承する必要性により、学問として体系づけられたのである。しかし儒学の影響からその呼称や内容は時代が進むにつれて武士道、士道などの倫理的な側面が強くなった。一方で作戦部隊の運用や編制などについての、いわゆる陣法、戦法についての研究は下火になり、幕末にはその実践性、実用性を失った。
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